Swinging Chandelier-6:ブライズメイド・上
Swinging Chandelier-6:ブライズメイド上
その席で彼女はミルクで煮出した紅茶に蜂蜜を入れる。その匂いは甘くやすらかに、けれどその指がカップの取手に絡まるときにはほんのりと、タンニンとは違う苦味がこごる。
絡まる絡まる、髪に甘みに、苦いそれ。
今日も定時で帰れると席を立つか立たないかの頃合に、上條さん来客予定ありましたっけ?と、同僚が声をかけてきた。そんな予定がないことを伝えると、外でお待ちみたいですがお友達ですか?と言う。
大丈夫なの?というように視線を投げかけて来たさゆりさんに会釈で退勤の挨拶をし、一人エレベーターを降りた。ビルの入り口から見回すと、駆け寄って来る者がある。
「ごめんなさい突然来てしまって」
それはアンズさんだった。うちの会社が主催したオフ会イベントに白いロリータワンピースで、夫ではなさそうな年上の男と二人で来ていた、可愛いオンナノコ。
あの時わたしは自分の名刺を渡しておいたので彼女が会社の住所を知っていてもおかしくはなかったが。アンズさんは確かあのイベントの後うちの会社にクリエイター登録はしていなかったはずだし、何か仕事上の約束をした覚えもなかった。
「あれからわたし考えて、それでお会いしたいと思っていて。あ、ご迷惑、でなければなんですけどっ、」
上擦ったように話すアンズさんの口唇はこの前のティントより上品な、肌色によく馴染むコーラル。いや今はそんなことを気に留めている場合ではなくて。ご迷惑も何もこちらは面食らうしかないというか、あからさまに近づかない方が利口だと思う、この状況は。
とはいえ。
「確かに事前に連絡もなかったのでびっくりはしてますけれど、どうされたんですか、なにかお仕事に関係すること?」
突然押しかけてきた割に放り出された雛鳥のような心許ない態度を取るアンズさんを見てわたしは、アンズさんが描いたあの四つん這いの少女のイラストを思い出し、つい時間稼ぎのような科白を出す。
関わらない方が賢明、やめなさい。さゆりさんだったらそう言うよな、そう思いながら。
そこは紅茶がメインの喫茶店。レジの横には小さな焼き菓子が籐のバスケットに入れられて売られている。カーペット張りの床に白熱球らしい卵色のテーブルランプ。窓枠と同じ胡桃色の椅子はゆるやかな曲線で形作られ、背もたれと座面はカーペットと同じ柔らかな新芽の色をしていた。
三種類もあるアールグレイから柑橘よりやや花の香りに近いものをわたしは選んで、アンズさんは牛乳で煮出したミルクティーを選んだ。すっきりとした空間にアール・ヌーヴォー調のインテリアをさりげなく配置した店内、革張りに金文字のメニュー。
「実はここネットで調べて、来てみたいなって思ってたんです。その、上條さん大人っぽい雰囲気だから、合うかなー、なんて」
「いえわざわざ、場所まで選んでもらってありがとうございます」
明らかにデートスポット、もしくは仲良しの女子同士がお茶飲んで写真を撮るところ、といった印象だった。
頼んだものを待つ間アンズさんは何度か水の入ったグラスに手を伸ばし、こくこくと咽喉を小刻みに上下させて飲み下す。
「あの、実は、名刺を作ってみたんです。イベントで会った時にアドバイスしてもらって、前は自信がなくてできなかったんですけど。でもステップアップっていうか、お仕事としての自覚も持ちたくて。ちょっと勇気を出してみました」
クリアファイルからアンズさんが取り出した、おそらくはサンプルの名刺。流れ星と少女を真ん中に描き、角から斜めに二箇所、円形のレース模様が張り出している。ペンネームとSNSのアカウント、メールアドレスはイラストに被らない位置にまとめて配置。流れ星の黄色やオレンジなどの暖色系と地色の淡いピンク。レース模様もそれに合わせたピンク系のグラデーションだったが、一番外側の襞になった部分だけがやや強めの紫色をしている。それでも全体の調和は取れているようには見えたが、その紫だけ少しトーンの違うような、そんな印象だった。
真ん中に描かれた少女は大きな流れ星を抱いて、というよりはむしろ抱かれるような形で膝を曲げ、願いを見つめている。
たくさんの同じ少女の中からわたしは一枚捲る。名刺の裏は白紙だった。アート系の人の名刺は裏にもデザインを凝らしていることが多いので、そこは少し意外だった。
「勇気を出さないといけないほどのことでしたか。もしかしてわたし、困らせてしまいました?」
「違います違います。むしろ逆で。自信を持ってって言われて嬉しかったんです」
「それは、ありがたいですが」
名刺をテーブルに戻して、私はカップからアールグレイを一口飲む。確かに、作家として名刺を作ったらどうかと言ったのは事実ではある。けれどただそれだけのことで、一度会っただけの人間に自分から再会しにくるとは。名刺作るよりそっちのほうが勇気が要るのではないか、と思わないでもない。
「上條さんが、すごく大人っぽく見えて、あの日。自分も大人になりたいって、思ったんです。絵のこととか、名刺のこととか作家としてのアドバイスっていうよりむしろ、」
怒らないでほしい、という雰囲気さえ出しながら言葉を繋ぐアンズさんを前にして、わたしの中でゆっくりと、ちぐはぐなものが、ばらけていたものが、まとまっていく気配がする。
「上條さんのおかげで前に進めました、って言いたくて、それで、」
アールグレイの鮮やかな匂いをもう一度わたしは吸い込む。タンニンの少ない茶葉を使うから飲み口も軽い。こういう場面にしてはうっかり無意識に好きな種類を選んでしまっていたな。昔は朝にいつも……いや今はそれはいい。それより目の前にいる、ミルクティーよりも蜂蜜よりも更に奥、へばりつくように甘く、苦いもの。両手でそっとカップを持って、アンズさんはようやく蜂蜜入りのミルクティーを飲む。幼い女の子のように。
そういえばイベントの時に一緒だった年上の、パトロンというほどでもないけれどただの友人でもなさそうな、あの男は今日は一緒ではないんだな。アンズさんの服装もこの前みたいながっつりロリータではなく、少女趣味は残しつつ少し大人びた感じのスカートに、柔らかい色合いのニットアンサンブル。そう、誰が見ても可憐、という感じ。
「アンズさんが今日わたしに会いにきてくれたのって、」
誰が見ても可憐で慎ましやかなオンナノコ。しかも若妻かよ、とある種わたしも矮小な笑いを口の端に隠せず、
「もしかしてお仕事抜きに、わたしとお話したいと思って来てくださったんですか?」
自分がどんな顔をしているのか、鏡を見なくてもよくわかった。
「え、」
アンズさんの動きがぴたりと、わたしと目の合ったまま止まり、次の瞬間五月の薔薇のようにほころぶ。
「そう、そうなんですっ。あ、でもちょっとその『重い子』って思われるのが不安で。でも、上條さんすごいですねっ、やっぱわかっちゃいますか?」
重い子、ね。そういうジャンル分けするタイプなんだ、アンズさんは。可愛いな。
「名刺といえば、前回名簿でお見かけしたんですけれど本名の、これは、若林杏子さん、で合ってます?」
「あ、本名の読みも杏子」なんです」
一瞬くらっとした。ハンドルネームだけで付き合う関係の人もいそうな世界で、っていうか四つん這いのあの女の子の絵もその名前で描いたよねあなた、大丈夫なのかそれ。いやまあオタ系の創作ジャンルはわたしの疎い分野だからその方が売りやすいのかもしれないしわからないけれども。
わたしは少し視界をずらして、胡桃色の窓枠を眺める。その窓は隣の雑居ビルの、ダクトや室外機に面している位置だから磨りガラスでそれらを遮断して、アール・ヌーヴォーの蔓草の曲線やテーブルランプの卵色は守られている。壊されたくない夢のように。
「わたしね、メイクとかファッションとか自信なくて。なんていうか、オタ系な自覚もあるからちょっと。そういう系じゃないお友達とか、絵を描く上でもいろんな世界を知った方がいいって前にも言わ……前から思ってて、」
何度目か、咽喉を上下させて水を飲み、アンズさんは迷子のようにわたしを見る。上條さんは大人の女性だから、と。
ああ本当に可愛いのねクソが。
「上條さんは、今日はこの前みたいな濃い紅色じゃないんですね、口紅。似合ってたのに、」
濃い紅色、初めてアンズさんに会った日に塗っていたベルベットローズの口紅のことか。あれは内勤ではあまり塗っていない色だ。会社に行って仕事して帰宅すればいいという日常では、今日みたいな淡い紅藤色ばかりつけている。
「いつもあの色かと思ってました」
少し残念そうにアンズさんが言う。
「お好きですか?」
「え、」
窓枠に向けてぼかしていたものをアンズさんに向けて、わたしは焦点を合わせる。
「あの色、お好きですか?アンズさん」
「や、その。やっぱり強い赤系って憧れちゃうんですけど、わたしには難しくて」
コーラルに塗られたアンズさんの口唇に、赤みのあるココアブランのアイシャドウ。アイラインは少しぼかし気味に、柔らかさを優先している。
「そうですか?今日のアイメイクだって似合ってると思いますし、肌に乗せる色の組み合わせもイラストレーターさんだからすぐに慣れていくと思いますよ?」
「これは。お化粧が上手な友達が前に選んでくれた色で、教えてくれた塗り方をずっとしてて」
そればっかりになっちゃうんですよね、なかなか冒険できなくて、と少し俯き加減に笑いながらまた水を飲む。
「なんていうかそろそろ、成長しなきゃなって」
「殻を、破りたいみたいな?」
お洒落も、お友達も。
「そう、そうなんです。上條さんみたいに大人っぽい人、わたしの周りにあんまりいないから憧れちゃうなー、なんて」
この喫茶室は禁煙だったな。まあこの人の前でわたしが煙草を吸うことはないだろうけれど。
「真黎でいいですよ」
「へ?」
「下の名前。わたしもあなたのことアンズさんって呼んでるし」
「え、え」
「それとも『上條さん』の方が楽?」
自分の口唇の端が更に、にりりと吊り上がっているのを知覚する。こんな笑顔をアンズさんに向けて、わたしは何をしたいのだろう。
ミルクティーのカップと水の入ったコップの間でアンズさんの指が迷って、今度は蜂蜜入りのミルクティーを選ぶ。
「じゃあ、真黎、さんで」
開くごとに染め上げられていく、五月の薔薇の頬。
時計を見たら七時近くになっていた。時間大丈夫ですか?と聞けば、今日は旦那が飲み会で遅いから、と答えながらも、少し後ろめたさそうな顔をする。
「ごめんなさいわたしばっかり喋っちゃって、真黎さん、つまらなくなければいいなー、なんて」
えへへ、とまた少し上擦るような語尾を笑いに紛れさせる。
彼女が次に欲しがるものを、わたしは探す。
「アンズさん、わたしもこのあと予定はないし、外で夕食摂ろうと思ってたんですけれど、」
この人を連れていくならどこがいいんだろう。この近くならデパートの中にある店が定石?いや違うかも、むしろ。
「良ければアンズさんも一緒にいかがですか?少しお酒も飲んだり、なんて」
アンズさんはすごく喜んだ。学生時代は門限が厳しかったし結婚してからはあまり外でお酒飲むのもその、はしたないかななんて思っていて、でも今日は女の人同士だから安心。
悪いことなんてひとつもないの、と言うようにアンズさんははにかむ。
「それに真黎さんは、わたしと違ってすごく大人なんだもん」
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