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「蔑ろにしないで」(いもうと)

あねへ


こんにちは。いもうとです。
先日は、あねと甥たちの顔が少しでも見られてよかった。そして、少ししか顔を見せられずごめんなさい。
春休みが終わって新学期。小学校からチャイムも聞こえてきます。
甥たちも進級、Rくんはバスケ部の見学に行ったでしょうか。

「チャラ男」Rくんの話は、義兄が真面目でまっすぐな野球少年であったことを知るとともに、Rくんが斜に構えてしまうその感じ、思春期!と思ってしまいました。
好きなものを好きと言うのが急に照れ臭くなる気持ち。
一生懸命に汗まみれになることを「ダサい」と思ってしまう気持ち。
みんながいいよね!と言うことに敢えて反発したくなる気持ち。
Rくんの本音は会ったことのない私にはわかりませんが、Rくんは野球が上手いのに、もう少し真剣にやればいいのに勿体無い——と思われていても、Rくん自身は、上には上がいるとか、それでも努力を続けられるほど好きじゃないとか、気づいてしまったのかもしれないし。
こうしてあれこれ気持ちを邪推されることもまた鬱陶しくてたまらないものよね、思春期。うまく言えない思いが生まれてくるね、思春期。

何事かに怒りを覚えるとき、そこには感じる側の心に痛みがあるからだというのは、実感として、深く頷くことができる、と思いました。
私はこう……誰かの不機嫌とか、重い空気とか、そんな場面に遭遇したときに「私のせいでは?」「私が悪かったのでは?」と、ついつい思いがちな性質なので、そういうことをいささかも思わな「そう」な人間に対してムッとしがちなのです。人の心は外から見てもわからないのに。
逆に私は問うてみるべきだったのですね。何故、誰かの不機嫌がそんなにも気になるのか、怖いのか、気持ちがわからないことが不安なのか、ならばいっそ「お前のせいだ」と言われたいのか。誰かの顔色を伺って、でも器用に立ち回ることも気の利いたことを言うこともできず、ただ勝手に気疲れしてしまう私に、その昔、あねはこう言ってくれたことがあります。覚えているでしょうか。


「自分が全てに関わっていると思うなんて、影響を与えられると思うなんて、傲慢なのよ」

思春期の少女の心に、「傲慢」の二文字は重く刺さりましたが、それは真実でした。誰かの不機嫌がいつだって全部私のせいであるはずなんかないのです。ただお腹が空いたのかもしれないし、考え事で頭がいっぱいなのかもしれない。私の預かり知らぬ心があるし、生活があるのですから。
今もやりがちな思考の癖ではあるのですが。

傲慢なほどの「私のせい」は、いま思えば、そのようにしてまでも誰かに関わりたい、私の寂しさであり、私を蔑ろにしないでほしい、という叫びだったのではないでしょうか。一人遊びが好きな子どもだと思っていたのに、私はきっと寂しがり屋だったのです。
世界はゆるく強く結びつき、縦に横に影響を与え合うことも事実なら、関わらないというのも、思う「理解」が得られないというのも、紛れもない事実なのでしょう。ときにはその事実に、誰かに、世界に蔑ろにされたと思って傷ついてしまう。そうではないのに。今はまだ、というだけかもしれないのに。へえ、そういうこともあるんだね、という理解の仕方だってあるのに。


もしかしたら誰しもが、私を蔑ろにしないでほしい、と叫んでいる。
目の前の誰かに、他でもない自分自身に。


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