学校の常識が世間の非常識である理由 – 勝利至上主義編
学校教育の中に勝利主義が持ち込まれています。
勝利主義とは、勝った者が各種資源を独占使用し、敗者は退場し勝者を称える立場になる、という思想です。
勝利主義で恩恵を受けるのは一部の者です。
敗者は応援する側の立場になるのですが、その応援する姿は美しいと教育されます。
実社会においても勝利主義はあります。しかし、それは、意図せず、結果としてそのようになっているのであって、多くの者が望んでそうなっているのではありません。なので、市民は民主的な公共機関を設け、偏りがないように、公共機関を通じて資源を再分配するのです。
しかし、学校教育は、自然発生ではなく、人工物です。
意図的に、学校教育に、勝利主義を持ち込んでいるのです。
この構造が、学校の常識は世間の非常識であると言えます。
1.Copilotの回答
まず、世間に流通している意見を概観するため、Copilot(コパイロット。Windowsパソコンに実装されているAI)に問うてみます。
私が発した問:学校教育に勝利主義を持ち込む意義は何ですか?
Copilotの回答から読み取れる勝利主義の特徴は次のとおりです。
1.学校の運動部活動における思想である。
2.教師が勝利主義を肯定している。
福岡教育連盟は、部活動の「教育的意義が種々のデメリットを上回る」と述べています。そして、部活動の意義として
「苦しいことも多いがその先に経験した者しかわからない感動がある」
と述べています。
しかし、教師である以上、「経験した者しかわからない感動」を他者にも理解できるように明確に言語化する必要があります。
2.勝利主義と勝利至上主義
これまで、勝利至上主義によるスポーツ競技によって、多くの不幸な事件が生じました。
例えば、部活動の顧問からの執拗な叱責を受けた運動部男子生徒が自死した沖縄県の事例があります。
勝利至上主義は教育的ではないため、否定されるべき思想です。
では、「至上」が付かない、ただの「勝利主義」であれば良いのでしょうか。
「至上」を付けるか付けないかは程度の問題です。
「至上」の程度は主観で判断されます。
勝利主義と勝利至上主義の境界は曖昧であるため、いつでも勝利至上主義に移行できます。
勝利至上主義を反省している態度をとっているようですが、勝利主義を堅持しているのです。
おそらく、当事者である教師は
「勝利主義で教育をしているのであって、勝利至上主義ではありません」
と回答するでしょう。
誰しもが誤った教育指導をしているつもりはなく、教師自身は正しいと思い込んでいます。そういう認識の下で、勝利主義教育は、教育現場で普及しています。
3.勝利主義教育
勝利主義による教育が、何故、学校で実施できてしまうのでしょうか。
それは、体育会系教師自身が勝ち組だからです。
Copilotによる回答で、勝利主義の意義として、次の3つを挙げていました。
・モチベーションの向上
・競争心の育成
・達成感の提供
しかし、これらの意義は勝利者が得るものです。
敗者が得るわけがありません。
何故、このような意義が挙げられているのでしょうか。
それは、勝利主義は勝利者のことしか考えていないからです。
体育会系教師自身が勝ち組であるため、敗者は眼中に無いのです。
なので、勝利者にしか適用できない意義を挙げているのです。
体育会系教師が生徒を指導する時、その集団内では教師が最も技量が高いため、勝者に準じる地位にあることになり、教師自身の自尊感情が高まるのです。
子どもの成長のための教育ではなく、教師自身の自尊感情を高めるために指導をしているのです。このことは、体育教師が個人的につぶやいた各種コメントや暴言からわかります。
暴言は批判されるべきものですが、その暴言の趣旨や思想を、暴言ではない言い回しによって正々堂々と述べているのです。
教師本人は子どもへの励ましで言っているのかもしれませんが、発言内容は「スポーツ競技の実力がある俺様はすばらしい人間だ」と自画自賛しているのです。
敗者には、勝者を称えるという奴隷化教育が準備されています。
4.勝利主義の意味
スポーツ競技で、早く走ることに何の意味があるのでしょうか。
AチームとBチームが戦ってAチームが勝ちましたってハナシに何の価値があるのでしょうか。
自分が勝ち組に属しているのであれば意味があると感じるかもしれません。負け組であっても、奴隷化教育を内面化したのであれば、価値があると感じるかもしれません。
勝ったり負けたりしても、そこで生じるのは主観による満足やくやしさです。
他の多くの教科教育(国語や数学)は、世界のあり方を理解するためのものですが、スポーツ競技からは世界のあり方などを学ぶことはありません。
主観による感情があるだけです。
スポーツ競技は知性や教養ではありません。なので、「経験した者しかわからない感動」というような感情論になり、意義を言語化できないのです。
私は、パラリンピックに意義があるのか調べましたが、何もないのです。多くの人は、障害者スポーツに何か意義があるかのような錯覚をしているようです。
体育会系は、トラブルが生じた場合、やり方(How to)を変えるだけです。趣旨目的を考えずに競技の駒に徹する、というのが体育会系の信条です。
「何故(Why)、そのようなことをするのか?」という問への解を体育会系は言語化できません。「経験した者しかわからない感動」が解なのです。
スポーツ競技の駒が、駒として奮励努力し、頑張る姿を演出すれば、観客から見れば面白いでしょう。そのような興行の駒に成りきるよう教育しているのです。そして、それは崇高だとも教育します。
勝利主義は一部の者だけが各種資源を独占使用するため、この思想を公共の場に適用すると不公平が生じます。
私立学校であれば「生徒に教育格差を設ける」という趣旨が公表されているのであれば良いのかもしれません。
しかし、公立の学校であれば、勝利主義に基づく教育格差は不当です。勝利したのであれば、一定程度までの能力があるのですから、それ以上の能力の向上を目指すのであれば、受益者負担であるべきです。
東大阪市では、令和5年度予算に公立学校の「クラブ活動推進経費」として「全国大会等出場補助金」を4,480千円計上しています。全国大会に出場することに補助金を出しているのですが、恵まれた者に一層恵みを与えることになっており、不当です。
5.勝利主義の実態
スポーツ競技は身体能力が重要です。経済力も必要になります。諸般の事情により勝利者になれない者は多いです。
公平な競争であるかのように見せておきながら、競技以外のところで既に勝敗は決まっているのです。
勝利主義教育は、不公平であることを不公平であるとは考えないように教育しています。
勝者は勝利主義を受け入れ、教師になって勝利主義を再生産していきます。
敗者には奴隷化教育が施されます。
このようにして、日本では民主主義教育は実施されない構造になっています。
何故、スポーツ競技に教育的意義があるかのように錯覚をしているのでしょうか。
それは、スポーツ産業とメディアと体育会系と一般大衆と教育機関の5者が、意義があるかのような雰囲気を盛り上げているからです。
スポーツ産業は、スポーツ選手という商材を得るために、学校教育に積極的に関与します。
体育会系は、教師という形で学校に送り込み、体育会系の再生産をします。
学校は、スポーツ競技を通して勝利主義教育をします。
北海道の公立中学校では正規の教育活動を中止して、一部の子どもだけが参加する体育大会を実施しています。
メディアは、一般大衆を煽り、勝負事を面白く演出し、「感動」や「教育的意義」を周知します。メディアが勝利主義を普及させているため、視聴者は勝利主義の問題に気づきにくいです。
一般大衆はメディアに踊らされます。一般大衆は数が多いので政治に影響を与え、それが教育へと波及します。
勝利主義は不幸な考え方です。それを実現させている社会構造に問題があります。
勝利主義は、一般行政施策にも適用されています。
東大阪市は50万人もの多様な市民が暮らしているにも関わらず、「ラグビーのまち」を標榜し、多くの公共資源をラグビーに割り当てています。
ラグビー愛好者にとってラグビーは崇高かもしれませんが、その他の一般市民にとってはただの趣味娯楽です。
このような所為ができるのは、政治権力を勝ち取った者が公共資源を好きなように使っても良いと考える勝利主義によるものです。
東大阪市ではラグビー競技は行政に寄生して生き残っているのです。
一般市民の多くは「ラグビーのまち」などの「スポーツのまち」を望んでいません。
勝利主義者は、民主主義よりも、勝利主義の方が正しいと考えています。
オリンピックを優先してやらかしていた実態を見ればわかります。
体育会系は、文化会系とは次元が異なる発想をしているのです。
我々日本人は学校で民主主義をしっかり教えてもらっていません。
勝利主義教育の方が普及しているように感じます。これは危険な状態です。
学校は、人間の精神のあり方をめぐって、子どもの心の奪い合いをする、戦いの場になっているのです。
以上
「校則編」を次の記事に書きました。