“怒り”という感情についてのお話
長いこと務めていた仕事を辞め、現在は就労支援事務所へ通っている。今は“怒り”についての講座を受講しているところだ。
最初、自分には不要の講座だと思っていた。もうかれこれ長いこと、怒りに身を任せた記憶がないからだ。でも話を聞いているうちに、ふと忘れていた怒りの感情が蘇ってきた。
私は物事をじっくり考えるのは得意だが、とっさの判断力がない。普通の人なら怒り出すところを、私は時間が経ち、後で思い返したその時に腹を立て始める。だが、目の前にその対象がいないので、怒りは熾火のように火が付いたまま、心の片隅にしまい込んで忘れることにしていた。灰をかぶせておけば、いつかは消えるだろうと思っていたのだ。
たぶん、私みたいな人間は他にもいる。彼らもおそらく火が付いたままの炭を、何らかの理由で灰をかぶせてしまい込んでいると思う。自分には怒る価値もないから、というのが一番の理由だ。でもその火は消化されず、心の中でくすぶり続けている。もし蒸気機関のような人間であれば、その怒りはエネルギーとなり、原動力にすることができる。
でも、大抵の人間はその火をそのままにしている。低温やけどのように、その火は人を苛み続ける。傷はいつまでたっても治らず、何かの拍子にじくじくと痛む。その火を抱えたまま、傷が治らずに一生を終える人もいるし、何かの拍子にその火が大きく燃え上がり、怒りに身を任せて人に危害を加えてしまう人もいる。
アンガーマネジメントは多分あまり役に立たないと思う。怒りがわっと大きくなりやすい人が、その怒りをコントロールするのが大きな目的だからだ。私のようなタイプは、おそらく怒ってもその怒りをしまい込むか、怒っていることに気が付いていない場合が多い。私は怒りに気が付かず、怒るべきところで怒れず、怒っても表現の方法がないし、怒っても無駄だと考えることで怒りをしまい込んできた。昔はちゃんと怒れていたと思う。でも、いつの間にか怒りを心のうちにしまい込んでしまうようになった。
今は怒りをどう消火するかで悩んでいる。たぶん、これからそのやり方を身につけた方が良いと思う。手遅れにならないうちに。ありがたいことに周りに頼れる人が何人もいるので、その人たちの手を借りるつもりだ。
今私が怒っている人が一人いる。最初はマッチ一本分の火の怒りだった。でもそれはその人と付き合っていくうちに、どんどん大きくなっていった。どうしていいかわからなかったので、私は灰をかぶせて火をなだめ、心の片隅にしまっていた。
その人とはありがたいことに縁が切れている。もう、会うこともないだろうと思う。
もしその人とまた出会ってしまったら、その時私の手に凶器となり得るものが無いように、私は心の底から祈っている。
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