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エッセイ:冴えないハマが好きだった

 原発事故のいちばんの被害はなんだったでしょう?

 そう尋ねられたときに答える内容は、遠くにいる人は、たぶん、「放射能汚染」か「風評」のどちらかではっきりと分かれ、それによって、その人のスタンスや主義主張がなんとなくわかってしまう。近くにいる人は、答えはさまざまかもしれない。私の答えは、「復興」だ。

 原発事故後の個人的な経験でいえば、いいことも悪いこともあった。その収支決算は、自分の人生が終わるまではできないけれど、地域へのより広範な被害でいえば、事故そのものよりも、現在進行形の復興政策によるものの方が大きくなるのではないかと思っている。

 結局、福島は、原発事故のあと、どのような方向に向かうかの大方針をつくらなかった。それなのに、事故の衝撃がもたらした熱病のような衝迫と、無尽蔵に浴びせかけられた巨額の復興予算を原資に、どこに向かうかもわからないまま、やみくもに突き進んできた。「突き進んで」とは書いたけれど、どこに向かうかわからないのだから、その時々目の前にあらわれる表面的な対応課題ーつまり、実際には本質的な問題ではなくたまたまその時目に付いただけの問題ーに、不相応な熱意と予算をかけることになった。その結果、表面に浮かび上がった問題の背景にある、より本質的な課題は放置されたまま、それをとりつくろうような形でいびつな政策対応が過剰になされ、そのことがより問題を大きくする、ということを繰り返して来た。ここまで潤沢な復興予算がなければ、こんなに過剰な対応がとられることはなかったし、対策がもたらす負の側面もここまでは大きくならなかっただろう。

 風評対策として、国と県は「発信事業」を繰り返している。自分もこれまで、一般的にはリスク・コミュニケーションといわれる活動をしてきた。リスク・コミュニケーションで、いくつも重要なポイントはあるのだけれど、肝要なのは、「必要な情報を、必要な人に、必要なだけ届ける」ことだ。必要でない情報を、必要としていない人のところに、必要以上に、あるいは必要以下に届けると、その情報は逆効果や負の効果をもたらすことが多い。誤解を受けたり、敵意を浴びせられたり、意図したのとまったく逆の効果を与えることもある。だから、よくよく考えた上で、抑制的に、十分に対象と必要とされる情報とを見極めながら発信する、というのが、私が学んだやり方だった。

 このやり方は、華々しい政治的なアピールを求める人たちには、不満であったろう。必要としない人には届けなくてもいい、というスタイルだから、「成果」として不特定多数の人びとにアピールすることができない。なにも考えないで、CMのような情報発信を連発している方が、よほど「やっている感」は出せるし、実績を訴えるにあたっての訴求力もある。だが、一方で、そうしたCM的な情報発信はたいていのばあい、ほとんど効果がないし、逆効果になることさえ少なくない。

 ずいぶん前から、国(主として復興庁)と福島県の連発してる発信事業は、関心のない人にとっては「福島県は風評県である」という印象を与えることにしか寄与していないのではないか、という気がしている。直接的には、昨年行った学生さんへの授業のときに「自分は福島の状況に関心はなかったけれど、TOKIOのCMなどを見て"風評があるんだな"と思っていた」と言われたことが大きいけれど、これ以前からも、県外の人と話しているときに、福島の話をすると「風評、大変なんですよね」とばかり言われるようになっていた。その言いぶりは、福島県全土、すべての住民がすべからく風評によって苦しんでいると言わんばかりで、違和感を感じていたのだった。

 実際のところ、2016年頃に福島民友が風評被害報道キャンペーンを繰り広げるまで、福島県内における「風評被害」の認識は限定的なものだった。全員が原発事故後に嫌な思いをしていたかというとそんなことはなく、それを訴えるのは、他者からの眼差しにさらされるSNS利用者や、県外、なかでも首都圏に避難した人や、農林水産業など県外出荷にかかわる一部の人に限定されたものだった。影響を受ける業種にとって経済的な被害が軽微なものであったというつもりはないが、マクロの福島県経済における風評被害の影響は、時間の経過とともに減少していたし、また、復興特需があったため、福島県の経済全体が風評によって深刻なダメージを受けているといった状況では、まったくなかった。

 避難者でも、ひどい思いをした人は首都圏に多いと言われていて、西日本などでは一度たりとも嫌な思いをしたことがないと語る避難者は少なからずいる。これは、原発事故が起きたときに、首都圏も計画停電や放射能のリスクにさらされて動揺が大きくかったことが影響しているのではないかと言われている。西日本は、よくもわるくも他人ごとのぶん、感情的にならずに、避難者は被害者として助けなくてはとの雰囲気が強かったのだろう。

 福島県内在住者も、県内にとどまっている限りにおいては、県外の人と遭遇する機会がそもそもないのだから、仕事などで接触がない限りは、「風評」と言われるものもそこまで大きなインパクトがあるわけではなかった。その平静さがその後も長期にわたって維持可能なものであったのか、あるいは望ましい状況であったのかは、また検討すべき材料であるとは思うけれど、少なくとも、全県民が原発事故後、風評に苦しみ続けてきた、という印象は正確ではない。

 外部の抱くイメージ・眼差しは、メディア報道やSNSを通じて、そのまま県内の在住者が内面化する自己イメージとして取り込まれていく。いま、県内でも、福島の最大の被害は風評被害だ、と言っている人が多いのは、内面化された外部からの眼差しによってつくられる自己イメージが優勢になっていることを意味しているように思える。もちろん、すべてが外部からの眼差しによって作られるわけではなく、実際の経験もあるだろう。とはいえ、すでに外部からの眼差しが内面化された状態だと、実際の些細な体験も、より大きな経験として感受され、巨大な「風評被害」の実在を確証立てるものとして実感され、さらに「風評」が肥大する、といったループにはいっているように思える。

 あふれんばかりの予算によって、次々と生み出される発信コンテンツも、これらのループに推進力を与え、ますます風評を巨大化させる方向に進んでいく。戦略をたてなおし、必要な人に、必要な情報を、必要なだけ提供する形にすることなしに、情報発信が、今後、プラスに働くような気はしない。だが、大方針が立てられることもなく、「発信」が自己目的化している状況で、この発信事業を止める術はない。政治家にしてみれば、風評対策は、自分自身が一切の政治的リスクを取らずに、対策と銘打って露出を増やして知名度を上げ、それを自身の業績としてアピールをすることができる、またとない機会なのだ。それが実際には、風評を強化し、固定化させ、「福島=風評」のイメージをゆるぎないものにしていっているのだとしても。

 ところで、私が「復興」を実感した瞬間というのは、2014年頃だっただろうか、広野町の国道六号を走っていたとき、割烹着姿の老夫婦が手押し車を引きつつ、用もなさそうに歩道をうすらうすら歩いているのを見ていたときだ。手を打って、これだよ、これが浜通りだ!と叫んだのを覚えている。広野町は強制避難区域ではなかったものの、町の自主判断で全町民が一時、町外に避難し、その後の戻りも遅かった。(現在は、ほぼ震災前の人口規模に戻っている。) それまでは、復興工事関係者のトラックや業務用車両は高速で行き交うものの、生活の気配は薄く、道を歩く人を見かけることはなかった。のどかと言うにも、やや間延びしているのではないかというくらいのペースで歩く老夫婦の姿は、事故前の、自嘲的に「なにもない」と地元の人さえ言う、いかにも冴えない浜通りらしく、心底ほっとしたのだった。

 今にして思えば、これも、いささか世間知らずの、懐古趣味的な感慨であったのかもしれない。ただ、私が好きだった「冴えない浜通り」は、復興によってなくなってしまうのだな、と思うと同時に、無性になつかしくなったのだった。

 復興が壊したものについては、またそのうちに書きたいと思う。

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