エッセイ:ユーゴスラビア幻想/作家ペーター・ハントケのこと

 電話の向こうから、低い、震えるようないつもの声が聞こえてくる。もう何年もこうして電話で話しているにもかかわらずためらいがちに、まぁ、お元気ですか。そちらはいかがですか? お変わりありませんか、と、毎回同じように尋ねる。すこし古風な日本語だ。きっと発声のしかたも私とは違うのだろう、声の響きが上品なのがうらやましい。ただ、息が細いのか、いつも囁くような音量だから、聞き取るのによく苦労する。品のある口調に不釣り合いに辛辣な言葉が混じることもある。

 ええ、私は左翼小児病と言っているのですけれど、あんまりに幼稚な、いいかげんなことを無自覚に言うものだから、本当にね、もう相手にするのも馬鹿馬鹿しくて、最近はかかわりもないのですけれど。

 彼女が、「左翼小児病」の人たちとかかわっていたのは、60年代末の頃だ。当時生まれてもいない私に、特に思い入れがあるふうでもなく、何度もそのことを話したことのある旧知の間柄に伝えるかのように、当時の状況を淡々と話す。私たちが電話で話していたのは、ちょうど重信房子が逮捕された頃だった。浅間山荘事件に言及し、その時だけは声をくぐもらせた。あの人たちの手記もぜんぶ読みました。なぜ、学生運動があのようになったのか、それはまだわからないし、考えなくてはいけないと思っています。ほんとうにわからないんです。なぜ彼らがああなってしまったのか……。私は、断片的に知っている連合赤軍事件の知識を寄せ集め、このことについて、なにかの当事者性を持って自分が考えることはまずないだろう、と思いながら、あいまいに相づちをうっていた。彼女は、いつものように、あら、ごめんなさい。私ばかり話してしまって。それで、そちらは最近どんな本をお読みになりました? と、尋ねる。

 その時に見た映画、読んだ本、そのときどき関心をもっていることについて、話すのがもっぱらだった。彼女のほとんど独り言のように話す口ぶりは、その頃人とコミュニケーションを取ることに恐怖を感じていた私でも、負担にはならなかった。話の内容を理解していてもいなくても、相づちをうってさえいれば、彼女との会話はスムーズにいく。うまく答えられなくても、彼女が話を引き取って、押しつけがましくもなく、なにかを話しはじめてくれるから。それでも、電話をする数日前から、よく段取りを考える。そろそろ電話をしてみようかな。時間帯はいつもの時間帯。きっとこの時間は、手が空いているだろうから。つながったら、まず、もしもしと話したあとに、お邪魔ではないか確認をする。その後に、前から聞きたかったカフカの寓話性について聞いてみよう。ユダヤ口承文学とカフカの物語の関係について、少し教えてもらえるかもしれない。それから、日本語で読むとどうにも興奮しているおかしなテンションにしか思えないニーチェは、ドイツ語原文だとどんなふうに読めるのか、尋ねてみよう。

 カフカ研究を専門としてきたドイツ文学者の彼女は、ええ、カフカの物語のなかにユダヤ文化の口承文学の影響はとてもあると思います。とかんたんに答えたあと、最近自分が見た映画の話を続ける。その映画は私は未見だけれど、あらすじと感想を彼女が述べていくのを、半分ぼんやりしながら、聞いている。話がひと段落したところで、おそるおそる尋ねてみる。最近、ニーチェを読んだのですけれど、ニーチェのドイツ語はどうですか? 彼女は特にトーンを変えるわけでもなく、答える。ニーチェは自意識が強すぎて、あまり好きではないのですけれど、非常によく練られたドイツ語で書いている、ということは感じますね。ええ、内容はちょっとついていけないというか、なにを言っているのかと思うところも結構ありますけれど、と、ここのところはちょっと可笑しそうに声の調子を弾ませた。ただ、ほんとうにドイツ語はすばらしいと思いますね、とてもよく考えられて書いていると思います。そして、最近の学生の語学力が落ちていることを嘆く。年々、学生の読解力が落ちていて、このままだと授業でテキストも読めなくなりそうで、心配なんです。学生さんと大して年が変わらない、そして、ドイツ語のアルファベットも解読できない私相手に、学生のドイツ語力が落ちていることを嘆いていることが、可笑しい。

 いつかの電話で、休暇でドイツに行ったら思わぬ出会いがあって、ユーゴに今度いくことになりそうなんです、と弾んだ声で話はじめた。旅先のドイツで、たまたま宿で知り合いになった人が、ユーゴからの避難者で、彼女から聞いた体験が、メディアで流れていた情報と大きく異なる、というのだった。長年統治してきたチトー死後、内戦に陥ったユーゴスラヴィアでは、長く混乱と紛争が続いていた。NATO軍が「人道的措置」として軍事介入し、それは、第二次世界大戦後ドイツ軍がはじめて国外に軍隊を送る機会ともなり、欧米諸国では大きな論争を引き起こした。ユーゴ内戦では、対立する民族をターゲットとしたジェノサイドを双方が行う残虐な事態も発生し、それらは「民族浄化」というセンセーショナルな単語を用いて、大きく報道されていた。ナチス・ドイツを経験した欧州内で起きた殺戮は、否が応でもホロコーストの記憶を呼び覚まし、ヨーロッパ世界では衝撃も大きかった。西欧言論世界でも、NATO軍による人道的介入をめぐって口角泡を飛ばす大論争となり、日本にもその様子は断片的には伝わってきていた。

 でもね、と、電話口で彼女は続ける。私の知り合った彼女は、サラエヴォから避難してきたセルビア系の人で、ご主人はボスニア人なのだけれど、報道で伝えられていることと、現地の状況というのは大きく違うようなんです。それに、そもそも、私たちは新聞やテレビで伝わっている情報は見ていても、実際にそこで暮らしている人たちがどういう状況で、なにを感じているかなんて、まったく知らなかったなと思って。私も反省しました。彼女は、空爆が続くなかでずっと日記をつけ続けていて、それを出版したというから、日本語訳してみようと思っているんです。彼女もご主人も研究者なんですけれど、日本にはまったくそこで暮らしている人たちがどういう状況なのか伝わっていないから、伝える必要があると思っているんです。

 それから、一ヶ月か二ヶ月に一度の電話のたびに、彼女は翻訳の進捗を教えてくれた。砲撃のなかでも続く日常のこと、西欧メディアで伝えられることと現地に暮らす人たちの感覚との大きな乖離、知識人たちの言説の欺瞞、人道主義という言葉に孕まれる、誰を救済し誰を見捨てるかという政治性と冷酷さ。砲弾のなかでも続けられた日常が完璧に破綻するのは、爆撃が昼夜を問わず行われるようになってからだ、という。昼間どれほど激しい砲撃を浴びようとも、時間が限定されている間は気丈に暮らしを続けてきた彼女たちが耐えられなくなって亡命することを決めたのは、生活のリズムが壊れてしまってから、なんですね。昼夜間断なく続く爆撃は、生活のリズムを根底から破壊してしまって、日記を読んでいても、そのあたりからとても動揺しているんです。そのことが強く印象に残ります。ときおりため息を交えながら、彼女は独り言のように話した。

 その手記の翻訳が終わって間もなく、彼女は、別のドイツ語作家の本を翻訳してみようかと思う、と話はじめた。ようやく停戦の動きが実現化しつつあるユーゴ情勢だけれど、まだ空爆のさなかにユーゴを訪れたドイツ語作家の旅行記があるんです。例の日記を翻訳したセルビア人の女性から、当時の状況がよく描かれていると教えてもらったのですけれど、翻訳の許可をとるためにドイツの出版社に連絡をとったら、その作家に会うことになりまして、という。その旅行記はほかにないタイプの手記で、翻訳するのは少し手強いのだけれど、内容はとてもいいので、伝えられるように訳してみるつもりです。そう言って、作家の名前を言ったけれど、私は知るよしもなかった。

 それから、彼女との電話の会話で、その作家の話が何度となく出てくるようになった。その作家は、激しい論争が繰り広げられたユーゴ空爆をめぐる論争の中心にいて、ジェノサイドを止めるための人道的措置としての空爆を支持する西欧知識人世界のなかで、反対する彼は孤立してしまっているようだった。欧州では、ユーゴスラヴィア内戦は、セルビア人による残虐行為に責任があるとし、その非道さを批判する論調が圧倒的だった。混迷を極めていた対立状況を、単純な善悪二元論に落とし込み、人道的裁定者として振る舞おうとする西欧知識人世界に反旗を翻した彼は、異端者をとおりこし、異常者として烙印を押されているようだった。名だたる知識人たちが彼と袂をわかち、また口を極めて罵った。とりわけ、ナチスによるホロコーストの記憶が色濃いドイツでは苛烈で、セルビアの独裁者ミロシェヴィッチをヒトラーになぞらえ、わずかでもセルヴィアを擁護しようものなら、ヒトラーを擁護するのと同じとみなされるような論調になっているのだという。

 なんだかひどくめんどうそうな人とかかわりあおうとしているんだな、というのが最初の印象だった。彼女は、若い頃、左翼運動に関心をもったことは言っていたものの、運動とは距離をとっていたようだったし、話す内容はいつも文学であったり思想であったり映画であったり家族の話であったりで、社会問題の話題になったこともほとんどなかった。連合赤軍の話題が記憶に残っているのは、そういう話題が出てきたことが、私にとっては意外に思えたからだった。

 もともとその作家は人嫌いのようで、取材も面会も基本的に断っているのだという。私に会ってもいいと思ったのは、きっとめずらしかったんじゃないですかしらねぇ、西欧の知識人世界のなかで孤立しているなか、わざわざそんな作家の本を翻訳して出版しようとしている物好きな日本人がいるのに驚いたんじゃないかしら。人嫌いだと聞いて、よほど愛想の悪い話しづらい相手だと思って、おそるおそる尋ねていったんですけれど、会ってみたら、とても紳士で物腰のやわらかい、話もウィットもユーモアもあって、とても楽しかったんですよ。彼も、彼女のことを気に入ったようで、その後、何度となく手紙を交換しているという。

 これだけ報じられているにもかかわらず、西欧メディアや知識人のなかで、ほんとうに現地を訪れて、現地の人の話を聞いた人は、ほとんどいないんです。そもそも、言語の壁があって、現地の人の話す内容が、西欧のインテリたちには詳しくはわからないはずです。せいぜいが通訳を介して話をしているくらいで。彼は、セルボ=クロアチア語も堪能だから、現地の人たちとそのまま会話しているんです。彼は、語学の天才というのでしょうか、八カ国語くらいの言語を操れるみたいです。たんに理解できるというレベルではなくて、翻訳をしているくらいのレベルで。

 そんな孤立無援の状況のなかでも、本は継続的に出版できているのが不思議だったけれど、ドイツでは出版社と作家は専属契約を結んで、何年間の間に何冊本を出すという契約なのだそうだ。だから、売れても売れなくても、出版社は契約どおりに本を出すし、作家は本を書く義務がある。そのせいもあって、彼は批判を気にするそぶりもなく、パリ郊外の家にこもり、規則正しく執筆を続け、毎日、あたりを散歩して静かに暮らしているんですって、と彼女は教えてくれた。

 出版社はなかなか見つからなかったが、ようやくドイツ語の教材などを出版している版元から出すことができた。彼女から送られてきた『空爆下のユーゴスラヴィアで -涙の下から問いかける』と題された本を見て、メインタイトルはとりあえずとして、サブタイトルの「涙の下から問いかける」は、彼女の感性からすると感傷的すぎないか、と思ったのだが、もともとの原題がそうであるようだった。となると、作家は、案外に感傷的な人であるのかもしれない。旅行記、というには、詩的で私的な、それでいて、内省的であり、感傷的・感情的でもある。その作家、ペーター・ハントケが、ユーゴ紛争をめぐる一連の騒動のなかでどのような姿勢を取ろうとしていたのかは、ひとつのセンテンスに簡潔に描かれている。

現在の戦争のなかでメディアが、あらゆる可能なこと及び不可能なことに対しても、「物語」(「レシ」)、「物語る」(「ラコンテ」「テル」……)という言葉を、それが抗い難い真実の証明であるかのように、前面に出すようになって以来、人類史上の最も高貴な言葉の一つである「物語」というこの言葉が、何かいやなもの、長いあいだ使えないものになってしまっていた。——けれども、いま、ここに、もう一つ、最後の、別の物語、難民や爆撃された人たちと共にある「共感」の物語を提示したい。昔、一人の子供が、ある他の人の苦しみについての物語を聴いた。そのあとでその子は、つと脇へ退き、空気を抱きしめた。

 彼は、陳腐な政治的常套句を繰り返す場へと堕した言論世界——その高見から見下ろすだけの高尚な言葉は、爆撃の標的となる人びとにとっては、上空から落下する爆弾と変わらない——から距離を取り、そこで暮らす人びとと言葉を交わし、同じ苦しみを得、それを物語として提示しようとしている。それは、確かに政治的論争とは一線を画した、言葉のみを武器とし、言葉のみによって世界を構築することを生業としてきた文学者による、常套句に覆われた世界に敢然と戦いを挑む「言葉をめぐる闘い」であった。

 ハントケは、ユーゴ空爆をめぐる政治的論争の渦中にいるようでありながら、彼自身の言葉を注意深く読むと、現実の政治からは距離をとろうとしていることは見てとれた。少なくともこの時はそうだった。ユーゴ空爆をめぐる言論人による論争に興味を抱いた何人かの日本人が、ハントケへ取材を申し込んできたこともあったと言う。人道主義を標榜しながら、非人道的な空爆を支持する西欧リベラル知識人の欺瞞を暴く、といったところだ。そうした取材を、ハントケは基本的に断っていた。自分は政治の話をしたくない。自分がしているのは政治ではない、文学だ。そう返していたという。しかしそれを聞いた大抵の人には、怪訝であったかもしれない。あれだけ政治的濁流のなかに飛び込んでおきながら、自分がしているのは政治ではない、なんて。

 ユーゴ空爆をめぐる論争にハントケがどのような立ち位置であったかは、彼の別の本を見ると、より明瞭となった。『幸せではないが、もういい』という作品は、自殺した母親についての手記だ。母が自死を遂げた直後の記述からはじまるこの書物は、私的な追想記とも言えそうだが、文学的な仕掛けも幾重にもはりめぐらされていて、なるほど、若い頃からその才能を高く認められた作家というのは、これほどの高度な文学的表現技術を持つのか、と感心した。友人の話では、ハントケは若い頃、観客罵倒という観客を罵倒する前衛的な演劇でドイツ語圏文学界にあらわれ、一大旋風を巻き起こしたという。ドイツ人ではなくオーストリア人だが、その後も、常にドイツ語文学界の中心に居続けたような作家らしい。著作は多数、作風も時期によって大きく変わり、その全容をかんたんには説明できない、日本に翻訳されているものは、その膨大な著作のごくごく一部、とのことだった。

 古書店で入手できた、彼の最初期の前衛的な作風の戯曲も手に取って眺めてみたけれど、戯曲という文章形態に馴染みがなかったことに加え、難解というよりは、ほとんど意味不明なその内容に、「前衛」とはこういうことなのかと、きっとなにかの感度が私とはまったく違うのだろう、と思いながら、書棚にしまった。

 『幸せではないが、もういい』という著書は、彼のその前衛作家時代の片鱗というのだろうか、実験的な描き方も経験してきた人らしい著述になっている。ハントケの実の父は、第二世界大戦中オーストリアに進駐してきたナチス・ドイツの士官だ。既婚者であった彼は、未婚の母との間にハントケを作り、やがて敗戦とともにオーストリアを去った。母は、すぐに育ての父となる別の男性と結婚する。ハントケがセルヴィア、というよりもユーゴスラビアに強い愛着を抱くのは、母がスロヴェニア系の出自であるということに大きな影響がある。

 日本語で手に入った別の著書『反復』は、彼自身の出自をめぐる経緯も書かれた自伝的な作品であると言われる。理屈っぽい文章のなかに、やや感傷に過ぎるのではと思えるところもあり、このアンバランスさが、この作家の魅力のひとつであるのかもしれない。それは、空爆下のユーゴスラビアに敢えて足を運び、人びとと共に泣き、笑い、爆撃下の世界を共有し、その場所から、おそらく自らを正統な継承者の一員であると自負してきたであろう、西欧知識人世界に激しく挑みかかる姿と正確に重なる。もはや幻影としてしか存在しなくなりつつあるユーゴスラヴィアという場所が、彼にとっては、神話的とも呼びうるレベルでの精神的故郷であったのだろう。だが、とも思う。これほど学識豊かで、ありあまる知性に恵まれ、理知的をとおりこし、偏屈なまでに理屈っぽく見える人が、自分が住んだことさえないユーゴスラヴィアを、ここまで強く精神的なよりどころとするのはなぜなのか。ある種の自己劇化のような気配も感じたけれど、それ以上、深く考えるほどの材料も気力も語学力も当時の私は持ち合わせなかった。

 最近は、ハントケのこと、あまり好きでなくて、連絡もとっていないんです。ニュース、ご覧になりました? ミロシェビッチの葬儀に行って弔辞を読んだりしたんですって。さすがにちょっとついていけなくて。政治から距離を置いていたはずなんですけれど……。

 そう彼女が電話で声をくぐもらせた。ユーゴ内戦をめぐっては、その後、戦争裁判もはじまり、戦犯の誰かがつかまり、誰かの裁判がはじまり、誰かが証言をする、新事実が明らかになる、そのたびに大きな騒動となっていたようだった。生活するその場所で、隣人知人多くの人びとがみずから武器を手に取り、そして殺し合った内戦の傷跡の深さは、私の想像の及ぶところではない。

 日本では、2005年に『ドキュメント戦争広告代理店』という、ユーゴ内戦激化の陰で行われていた情報操作の内幕を描いたドキュメンタリーをNHKのディレクターが出版し、ユーゴ内戦において繰り広げられた苛烈な情報操作戦の内情が明らかになった。だが、当の舞台となった西欧では、こうした検証はどこまで受け入れられているのかはわからない。広告代理店が作りあげた、セルビア「だけ」が、ミロシェビッチ「だけ」が悪者であったというイメージは正しくない。ただ、それはその逆、セルビアが、ミロシェビッチが無辜であった、ということも意味しない。敢えて、ハントケが、ミロシェビッチの葬儀に出席し、弔辞を読み上げるという行為に、なんの政治性もないと言えるとは思わない。

 一方で、彼の自己劇化とも呼びうる、ユーゴスラヴィアという幻想への偏愛を思い起こすと、その行為は理解できるような気もする。理屈ではない、道理でもない、ただ、他の人にはとうてい共感しがたい強さで、彼は、みずからの偏愛に、その身を投じようとしている。理解できないといえば理解できない、理解できると言えば理解できる、だが、その根本は、どこまでいっても漠として中心にたどり着けない、ハントケという個人の私性のベールに包まれている。私的な愛に殉じるなんて、いまどきメロドラマにさえならない陳腐さだけれど、あれだけ感傷的な人だから、それもまたありなのかもしれない。それを、感傷にとどまらせず、強度に自己劇化した上で、物語として構築しなおすのは、作家ならではの業であり才能でもあるのだろう。

 2019年のノーベル文学賞受賞者として、ハントケの名が踊ったときに、選考委員会は、集団で一時的な物忘れ状態に陥ったかなにかのバグを起こしたにちがいない、と思った。実際、その前年のノーベル文学賞は、選考委員のセクハラ問題によって選考自体が取りやめになるという異例の事態が起きていた。ユーゴ空爆以前から、ハントケはノーベル賞候補者として何度も名が上がっていたそうだから、実力的にはありえたとしても、彼への世評を考えたとき、通常では「あり得ない」選択であると思えた。案の定、その後の西欧、とりわけ、ドイツ語圏では、ハントケ受賞に対する批判が荒れ狂ったという。彼は、それほどにスキャンダラスな作家になってしまっている。彼女からは、しばらくしてハントケ受賞の報と、それについて寄稿した文章が郵送されてきた。なつかしい字で、かんたんにドイツで起きている騒動について触れられていた。「言葉をめぐる闘い」、いつか彼女がハントケについて書いていたのと同じ言葉が、紙面のコピーに見えた。実は、私はその記事はオンライン紙面でとっくに読んでしまっていたのだけれど。短く、私の書いた本を、共感を持ちながら読んだ、と添えてあった。

 長く彼女と連絡を取らなかったのは、原発事故のあと、多くの人が変わってしまったように、彼女が変わってしまうのがこわかったからだ。インテリと呼ばれる人たちは、事故の後、急に人類の文明の限界に目覚めたり、科学技術の発展の罪に苦しんだりしはじめた。改悛はいい。悔い改めるのも善行にちがいない。だが、そういう話を、生活の混乱のさなかに聞かされるのは、ただただ苦痛でしかなかった。私は教誨師ではないのだから、そんな人生を賭けても終わらないような話は、この生活をどうにかしてからにしてくれないか。そう思う日々の中で、彼女の翻訳したハントケの本は、何度も手に取り、読み返した。もっと言えば、彼の存在と言葉が、あのときの私を支えたといってもいいかもしれない。少し風変わりな、偏屈で気難しく、ときおり感傷的な作家の書いた偏愛に満ちた言葉が、苦しみにある人の魂を救うこともある。そのことは、まだ彼女には伝えていない。

 SNSでは、ノーベル文学賞受賞を受けて、記者たちに囲まれ、もみくちゃにされながら、インタビューともよべないやり取りに応じる彼の映像が流れてきた。お久しぶりというのも奇妙で、また、あちらが私を知る由もないのだけれど、旧知の人を眺めるように見ていた。まさか自分が受賞できるとは思わなかった、とてもうれしく思う、といったコメントが聞き取れた。怒っているような、高揚しているような、喧嘩をしているような、礼儀正しいような、その全部が一緒になったようなやりとりだった。あの動画に映っていた自宅とおぼしき庭は、彼が喧噪のなかで静かに暮らしていたパリ郊外の家と同じだろうか。それとも、それはまた別の家だったろうか。20年越しにあなたに会えて、私は、とてもうれしく思う。

【2022年2月2日 一部修正】
 関係する方からの指摘を受けて、一部、本文を修正しました。また正しくない記載があったことを、関係者の方にお詫びいたします。


気に入られましたら、サポートをお願いします。