【2023年頭初感】生きることを意志すること
昨年は、年の終わりから年末にかけて大きなイベントが相次いで、バタバタとした年の終わりになりました。私にとっての原発事故からの集大成ともいえるものもいくつもあって、大きな区切りとなる年であった、と思います。2022年は、世界的にも大きな転換点となる年になりましたが、私個人の人生にとってもそうなりました。
順にご紹介していきます。
『末続アトラス 2011-2020: 原発から27lm --狭間の地域が暮らしを取り戻す戦いの記録』発刊
2012年からいわき市末続地区で行ってきた放射線測定活動についての記録誌をまとめました。足掛け8年。たんなる「測定」というのではなく、リスク・コミュニケーションの実践の場であり、co-expertise(共有知)プロセスの体現でもあり、原子力災害からの復興とはなにか、を考え続ける場でもありました。そのことがうかがえる内容にできたと思います。
PDFは上記サイトで無料でダウンロードいただけますが、Amazonでもご購入いただけるようにしました。
ICRP Pub.146『大規模原子力事故における人と環境の放射線防護』日本語訳正式版公開
上記の末続地区での8年におよぶ活動は、ICRP111勧告との出会いが契機になっています。2011年の事故の直後にその存在を知り、それに大きな感銘を受け、自分なりに解釈して実践してきたのが末続地区での活動でした。
111勧告との出会いについては、2019年に出した著書『海を撃つ』のなかに詳しく記載してありますが、それ以外にもETHOS IN FUKUSHIMAのなかにも記録を残してあります。
ICRP146勧告のなかでは、末続での活動についての私の論文も紹介されていて、その取り組みも紹介されています。111勧告をきっかけに始まった活動の成果が、その改訂版である146勧告のなかに取り入れられたことは、私にしてみれば、一目惚れした初恋相手との恋愛が成就した、くらいの感覚かもしれません。
もちろん多くの人の協力と応援があったうえでのことですし、勧告に反映されることを目的としていたわけでもありませんが、末続の活動もきちんと記録に残すところまで形にできましたし、「願いはかなう」ということを実感できる、代え難い経験となりました。
第24回福島ダイアログの開催
上記146勧告のなかでも記載のある「ダイアログ」は、ICRPが開始したものですが、いまはNPO福島ダイアログが引き継いでいます。
昨年11月に、このダイアログでは初めて、世代を18歳以上35歳までに限定した集まりを開きました。そこで話し合われた内容は、復興シーンが大きく移り変わっていることをはっきりと感じさせる内容で、この内容を踏まえて、私たちも動き方を変えていかなくてはならないなと思わせられるものでした。
ダイアログも2011年以来続いていますが、これほど大きな変化のうねりを感じたのは、2015年末以来だろうと思います。復興シーンの大きな変化は、2015年〜2016年を境に起きています。それまでは、民間発の新しい動きも多くあり、希望を感じさせるところもあったのですが、その後は、トップダウン式、中央集権的(な日本型無責任構造)、予算ばら撒き型の行政主導、前例踏襲・既得権益優先の官制復興の色合いを急速に強めていきました。(個人的にも、そんななか、その流れに飲み込まれずにこらえるのは、非常につらいものがありました。)
ただ、今回のダイアログでは、それが大きな行き詰まりを見せていることが明確に見え、この先変化が起きざるをえないだろうことを強く感じさせるものでした。
2冊目の単著『スティーブ&ボニー 砂漠のゲンシリョクムラ・イン・アメリカ』刊行
ほんとうは、もう少し早く出すつもりだったのですが、諸事情でこの時期になってしまいました。『末続アトラス』も、もっと早い時期に出す予定で進めていたので、大きなイベントが今年後半に重なったのは、まったくの偶然なのですが、時代の変化する時期は、こういうふうにすべてが測ったように重なってしまうものなのだろう、と思います。
まだ刊行して10日あまりなので、反響も特にないのですが、内容としては、あらたな原子力時代を迎えようとしている現在、読んでおいて損はないものだと思いますので、お読みいただけるとありがたいです。
「生きることを意志する」
ETHOS IN FUKUSHIMA立ち上げもそうでしたが、原発事故後、バタバタと動いてきたにもかかわらず、私自身には、自分の意志で行なっている、という感覚はほとんどありませんでした。
「精力的に活動されていますね」とよく声をかけられはしたのですが、止むに止まれずやっている、というのがほんとうのところで、また、動けば、その流れを引き受けざるをえない状況になるものです。責任感だけは強いため、それを引き受け続けてきた結果が現在、というのがこれまでの私でした。
ただ、よく考えてみれば、これは原発事故後に限ったことではなく、私の人生そのものがそうしたものでした。そのことには、事故前から気づいていて(『海を撃つ』の「あとがき」にちらりと、望みを抱いたことがない、と書いていますが)、それが事故後に行動を起こす大きな動機ともなっていました。
つまり、とりたててやりたいと思うことがあるわけでもなく、それどころか、生きること自体に執着も興味も持っていない自分が「生き延びてしまった」という罪悪感です。私は、昔から希死念慮が強く、観念としての「死」は拭うことのできないものとして、背中に張り付いていました。きっと生きたかったに違いない多くの人たちを差し置いて、自分が生き延びてしまったことに抱いた深い罪悪感も原発事故後の私の行動の背景にはありました。
(これは心理学的に「サバイバーズ・ギルト」と呼ばれるもので、事件・事故など不慮の出来事に巻き込まれて自分だけが生き延びてしまった、という場合に、一般的に誰でも抱くものではあるようです。ただ、私の場合は、自分がもともと希死念慮のある人間であったため、一層、それを強く感じたということでしょう。)
「なぜこんなことをしているの?」と友人に尋ねられた時に、冗談めかして「生きているうちに、ひとつくらいは人の役に立って死にたいから」と答えていたこともあるのですが、それは、かなりの部分、本音でした。
私の言動には、どこか自棄的な捨て鉢なところがあったはずで、そのことを「危うさ」として感じ取っていた人もいるのではないか、と思います。
そして、2022年、末続での事業が終わるときに、何人もの方からかけてもらえた「いままでありがとうね」という言葉は、私の思いが叶ったことを教えてくれました。とにもかくにも、私は、ひとつくらいは誰かの力になれた、のだと思います。それを聞いたときに、初めて私は、「自分が生きることを、自分に許してあげよう」と思えました。
「生きることを意志すること」は、私のこれまでの人生で経験したことがなく、また、ずっと羨望を抱いてきたものでした。ベラルーシの被災地を訪れたとき、私が、強く惹かれたのは、彼女・彼らの眼差しが語っていた「生きることへの強い意志」でした。末続の活動を続けてきたのも、そこに「暮らす意志」を明確に示す人がいたからでした。私の持たない、その意志を持つ人たちは、私にとっては憧れでした。
2023年からは、生きることを意志しようと思っています。
これまでとは、動き方も印象も変わってくるだろうと思います。もし、私が変わったな、とお感じになったり、怪訝に思われている方がいたりしたら「人生スイッチを切り替えたらしいよ」とお伝えいただけると幸いです。
多難な時代ではありますが、2023年が、生き延びるための方途の見つかる年になることを祈りつつ。
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