18. 秋の宵、お風呂で本を読みませう
今年になってから、朝型へ切り替えようと試みている。朝散歩、朝ヨガ、朝瞑想。と、朝の楽しみがいろいろできたのはよかったが、深夜の読書時間が減ったのは、よろしくない!
以前には、夜11時から、原稿を再開させて、2時・3時に終えて、真夜中のお風呂へ。じゃぼーん、と浸かり、本を読んでクールダウンさせてから就寝するのが日課だった。
家人が寝静まった深夜、蝋燭色の電気をつけての湯浴みは愉しく、
24時間+αをもらったようで、その本がとても愛おしいものに思えたもの。そうやって、向田邦子の「胡桃の部屋」「隣の女」を。カーソン・マッカラーズの「悲しき酒場の唄」などをひっそりと読んだ。
それにつけても、「夕方4時半のお風呂」だ。
わが家のお風呂、実家のお風呂も、壁がタイル張りだ。
洗い場にいる時はさすがに小窓を閉めるが、バスタブに浸かっている時は、小窓を全てあけて入浴している。
オレンジの電球の光と夕暮れ時のながれてくる風の匂い。
虫の鳴き声や鳥や雀の騒ぐ、外の気配。隣の人の声などもお風呂に流れ込んでくる。皮膚から毛穴から、じんわり伝わってくるお湯の感触。このお湯があって、あったかい。「あったかーい」、という事がこれだけ幸福なこと、と気付く瞬間である。
阪神淡路大震災の時には熱いお湯が、何週間も出なかった。また手術をしたあと、抜糸するまではお風呂には10日間入れなかった(シャワーのみ)。だから。というわけでもないが。お湯があったかい。ということは日々平安の象徴のようなものであると思っている。
バスタブの中で足をグッと持ち上げて、リラックスをしていると。手足も、肩も、お腹も、そして心さえも。緊張感の中にいたのだなぁ、と改めて知るのである。
お風呂の中で活字を読むこと。
あつく蒸された〝言葉たち〟が自分の体へと吸収されていく感じが好きで、たいていは本のページをめくる。あるいは、ポメラで日記を書いている。
風呂から上がったらしばし、ソファーに移動して、本の続きを読むが、お風呂の中で視たもの(本の風景)と、室内で視るものとでは、脳で結ばれる映像がほんの少し違う気も……。室内でのそれは、さっきほど熱く言葉は呼びかけてはこない、もっと冷静そして穏やかに言葉(物語)を読んでいるのだと思う。
それじゃ、郊外で本を読むなら、遠い場所から語りかけられているのかといえば、それはどうだろう。ちゃんと意識してみよう。
街中で。
自然の中で。
そういえば、春。海辺のそばのリゾートホテルの部屋で潮の満ち引き、ざーっざーっという波音を聴きながら、深夜に本を読んだ時間は最高だった。どこでもない、不思議な場所にいて、あったかくて、ゆっくりのんびりし、いつまでも言葉を読めた。言葉、それは作家の声。もしかしたら、お風呂読書は、子宮の中で物語を読んでいる感覚に近いのかもしれない。
ともあれ。お風呂は、日常からほんの一瞬エスケープできる旅の入口につながっているのだ。