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「繊細」で自分を美化するなよ、臆病なわたし

 夫と散歩をしていたら、民家の前で猫が死んでいた。横倒しになってよく見えるお腹が、動いていない。悲しくて涙が止まらなかった。
 そんなわたしを見て夫は、「あなたがそんなに泣く必要ない」と言う。あなたじゃなくて、あのお家の人が悲しむことだ、と。
 冷たい人だ、と反射的に思ったけど、わたしも確かに疑問だった。なんでこんなに悲しいんだろう。何に悲しんでいるんだろう。悲しみを分解してみる。

 飼い主さんの悲しみを思って泣いている。
 ドアを開け横たわる猫を見た瞬間の驚き。動かない猫を不思議に思う。もう動かない存在になったことに気づくまで、どれくらい時間がかかるだろう。体温や手触り、仕草や鳴き声、出会いや日々のやりとりがとめどなく記憶の引き出しから溢れ出て、頭の中をいっぱいにする……。湧き上がる悲しみはどれほどだろうか。

 猫の一生を想像して泣いている。
 どこで生まれ、どうやってここに来たんだろう。毎日何をして、誰と仲が良くて、どんなことが好きだったのだろう。なぜ死んだんだろう。どうして今ここで一生を終えることにしたんだろう。きっと色んなことがあったはずだ。生まれてから死ぬまでの間、猫の身に起きたであろう出来事の濃密さを思うと、圧倒される。

 猫がいる風景が失われたことに泣いている。
 田んぼの畦道。公園の草むら。側溝の底。電柱の足元。隣の家の植木鉢のかげ。そこに猫がいた光景はもう見られない。猫に踏みしめられた草、猫の影で涼んだ虫、猫のいる風景に癒しを得た人。ある場所が猫の影響を受け、それによって誰かに影響を与えることはもうない。

 猫自身や、猫を取り巻いていたものに関わるストーリーが、頭の中をめぐる。それらを想像して、わたしは泣いている。
 夫の言葉に納得する。
 飼い主さんのこと。猫のこと。猫がいた場所のこと。それらのことを、わたしは何も知らない。勝手に想像して、勝手に悲しんでいる。夫の言うとおり、わたしは、わたしが悲しむ必要のないことを無理矢理悲しんでいる。

 なぜそんなことをするのか。それは、悲しんでいる、というより、怖がっているからだと思う。
 わたしは大切なものの死に遭遇したことがない。でも、それがとても痛いことだと、知識として知っている。いずれ訪れる別れの痛みに恐怖して、痛みに苦しむであろう自分を憐れんで、泣いている。つまり、未来の自分のために泣いている。

 人の心の機微に敏感だったり、相手の気持ちに共感したりできることを、「繊細」だと表現することがある。目には見えない、言葉になっていないことを察知し、心を寄せることが出来る。そんな、細やかでやわらかな感性をもっている、と。

 他人の気持ち。誰かの一生。誰かがいない世界。そういうものに思いを馳せているわたしは「繊細」といえるのかもしれない。そういう感性を持っている自分に安心したり、誇りを感じたりすることもある。そういう自分を愛しましょう、と世間でも叫ばれている。それは素晴らしい感性だから、と。

 でも本当は違う。これはただ、臆病なだけだ。
 未来の自分が引き受けることになる痛みに、耐える練習をしているだけだ。耐えられるか、試しているだけだ。
 繊細。もったいない、とか、恐れ多い、とかじゃない。こんなに美しい言葉で形容するに、この営みは値しない。

 そう思ったら、空想の悲しみが切り離されていく気がした。残ったのは、一生を終えた猫に対する「お疲れ様」という労いと尊敬の気持ちだった。

「あなたが泣いていると、悲しい」
 夫は隣でそう言った。大切なものを失う未来に怯えている傍らで、大切な人が悲しんでいる。「この人を失うのが怖い」。そう言ってガタガタ震えて、目の前にいる大切な人を見ていない。こんなに見事な本末転倒があるだろうか。わたしが思いを寄せるべきは隣にいる夫の気持ちであり、わたしが感じるべきは恐れではなく愛しさだ。

 「繊細」という美しい響きに、自分の弱さを隠すのはやめよう。そう思う。
 悲しみが生まれたら、その中に「臆病」を見つけよう。臆病に紐づいている恐れや不安を選り分けて、そのとき自分がほんとうに感じなければならない感情を掬い上げよう。その感情を頼りに相手を思いやれることが、真に「繊細」な感性を発揮しているということな気がする。

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