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強烈映画『バビロン』が「表現」の世界への嫉妬と恐れをやわらげてくれた。

『バビロン』という映画をみました。

『バビロン』 
デイミアン・チャゼル/2022
アメリカ

1920年代のハリウッド。映画はサイレントからトーキーへ移り変わる。役者、製作者、ミュージシャン。映画という夢と狂気の魔法に翻弄される人々を描いたブラックコメディ。

241202 Netflixにて鑑賞。
12/1=映画の日に観たらより感慨深かったかも。


飲み込まれて、喰われてしまうしれない。
それでも魅せられ、惹きつけられてしまう。

でっかい夢と、死に至る危険・絶望と隣り合わせの「ショービジネス」という世界。その華やかさと残酷さに翻弄される人々の悲喜劇を、溢れんばかりの映画愛をまとわせて描いた作品でした。

鑑賞中ずっと、「う~ん、とっても下品!笑」と思いながら観てた。一緒に観始めた夫なんか、そのエロ・グロ・スカ・バイオレンス加減に「ごめん、俺はもういいや」と10分で離脱。この映画、3時間あるのに笑

鑑賞後は「普通に面白かった。長いけど」「役者陣すてきだった。全体的にお下劣だったけど」みたいな感想だったんですが。

10日ほど経ったころ、なぜか毎日この作品のこと考えていた自分に気付き。「私もしかして、バビロンのこと、好きなの?」と、まるで恋を自覚したような気持ちになりました。

こういう作品、たまにあるんです。あとから「好き」って気づく作品。自分の中の何かに刺さってるサインです。これは恋文を書かねば、とnoteを開きました。

なんで恋に落ちちゃったのか考えてみたんですけど、それは「『表現』の世界に嫉妬と恐れを抱いている私」と向き合わせてくれたからじゃないかと思います。

そんなことを書いていきます。
ネタバレあるので、ご注意くださいませ。

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子供のころの将来の夢は、「イラストレーター」「漫画家」「音楽家」など。要するに、「表現」の世界で生きる人になりたかった


絵や音楽、書道、文章など、自分の頭や心の中のものを形にするのが好きだった。人前で発表したり、披露したりするのも、結構得意だった。ステージ上の緊張感も、嫌いじゃなかった。

でも、大きな成果を得たことはなかった。絵や書道はせいぜい、県レベルの小さな賞を貰えたくらい。作文も別に目立った評価はされず、まれに先生や友だちが「私は好きだな」と言ってくれる程度。演奏も弁論も演技も、失敗はしないけど輝くものは特にない。

高校時代、卒業後の進路を考え(させられ)ていた17歳の私は、それでも絵を描くことが好きだった。だから「絵で表現する人」になる未来に惹かれていて、美術系の学校への進学に興味があった。

でも、その道は選ばなかった。
「そっちに進みなよ!」と力強く背中を押してくれる人はいなかったことが、私の気持ちを固めた。


私ごときの実力では、才能あふれる人たちに満ちた芸術の世界で認めてもらえるわけがない。自己アピールが苦手で凹みやすく、誰かに褒めてもらえるかをいつも気にしているような私が「表現で生きていきたい」なんて、おこがましい。

自分には、「表現」で食べていくための「才能」も、表現者としてやっていくための「性格」も備わっていない。せっかく勉強は得意なんだから、それなりの大学に行って、それなりの会社に就職して、安定して生きる方が良いに決まってる。

そう思って、順当な、盤石な、平凡な道を歩むことにした。

そしてそんな自分を、心のどこかでずっと卑下してきた。

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しかし今年、ありがたい巡り合わせがあり、「表現」の世界にちょっとだけ足を踏み入れることになった。勤め人を辞め、複業フリーランスとして歩み始めた私は、仕事の一つとしてタップダンスのインストラクターになった。趣味で通っていた教室でレッスンをもたせてもらうようになったのだ。

インストラクターは、ダンサーほど「表現者」ではないけれど、会社員・大学職員という、それまでの仕事と比べたらずっとずっと、「表現」の世界に近い仕事だ。

ダンスという、身体を使った自己表現を仕事にできるなんて。こういう機会に恵まれたことにものすごく感謝しているし、教え方も、踊りの技術も、もっともっと上達したいと、強く思っている。

……のだけど、「自分には、この世界で生きていく力はないんじゃないか」と、いつも不安を感じている。

運動音痴だし、ダンスなんて学校の体育でしかやったことなかったし、若くもないし。

10歳にも満たない子が同じステージで上手に踊っていたり、ティーンの少女たちがライバル心むき出しでしのぎを削り合っているのを見たり、他の教室の元ダンサーや某劇団員の先生の(色んな意味での)強さを見たりなんかすると、「私はこの世界で、どうやって生きていくんだろう……?」と怖くなるのだ。


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『バビロン』は、まさに過去に私が諦め、そして今、恐れをなしている「表現」の世界で生きる人たちの物語。登場人物たちは、みな才能にあふれ、自分をグイグイ表現していく賢さや強かさを備えている

たとえばマーゴット・ロビー演じるネリー・ラロイ。


ニュージャージーの田舎出身の無名女優。なのにみずからを「スター」だと言ってはばからない。

呼ばれてもいない映画関係者のパーティにカチこんで、セクシーダンスで目立った結果、本当に映画の撮影現場に呼ばれる。そして主演女優を食うほどの名演技を披露し、またたくまにスターの座に君臨するようになる。

しかし本作の舞台は1920年代のハリウッド。映画が無声から有声=トーキーに移り変わった、業界の一大転換期。

ネリーは、田舎出身でなまりがあり、ついでにしゃべり方や声質、それに立ち振る舞いにも品がない。声付きで演技をしなければならなくなった途端、さっぱり仕事が来なくなり、ドラッグとギャンブルに溺れる。

旧友から再起のチャンスを与えられるも、ド直球でぶっ飛んだ女なネリーは、お高く止まって自分を見下すお偉いさんたちに迎合できない。上品な社交の場でFワードを連発し、タキシードおじさんにゲロをぶちかけ、結局業界を干されてしまう──


ネリーの生き様は、ハチャメチャで危うくて哀れなんだけど、一方で、自分全開で生きているところが本当に爽快で。

人を惹きつけるビジュアルや演技力、自分の才能を猛烈にアピールできる積極性、言いたいこと・やりたいことを偽りなく表現できる正直さ。

フィクションでも現実でも、「表現を生業にする人」の、パワフルな才能とパーソナリティに触れるたび、私は「かっこいい~~!」と憧れに目を輝かせる。


しかしその興奮に紛れて、「羨ましい」「ずるい」「悔しい」「でも私にはムリだ」という薄暗い気持ちが同時に生まれる。

「表現」で生きられる人って、やっぱりこういう人だよね。17歳の私、判断間違ってないよ。

そんな声が聞こえてくる。


自分の中の「表現する人として生きたかった」という無念と、「どうして私には才能も性格も備わっていないんだ」という憤りと、「なぜ挑戦することさえしなかったのか」という自分への失望と、「やってもいいけど、上手くいかないと思うよ」という客観的でシビアな理性の声と……。

そういうものに引っ張られて、素敵な作品にも、素晴らしい出会いにも、うっすらと暗いシミができてしまうのが、常だった。


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でも、この『バビロン』は違った。

薄暗い感情は生まれることなく、ただただ「私は私で、いいじゃないか」と思えた気がしたのだ。

ネリーの生き方は、とにかく勢いがある。爆発力がすごい。ネリーだけじゃない。他の人物たちも、目的やプライド、自分の感情のために、自らの命を危険にさらしたり他人を傷つけたり(死に追いやったり)と、とにかく危うい。

コメディ映画として、エンターテインメントとして誇張されている部分もあるとは思うけど、ネリーを始めとする映画業界の成功者たちは、ほんと、いろんな意味でヤバい。

ヤバすぎたせいだろうか。
普段の私だったら、「こんな生き方はできない。だから私はアーティストにはなれない」と卑屈になるところ、今回は「彼らみたいな生き方は私にはできない。いや、できなくていいんじゃないか」と思えたのだ。


安定や平穏よりも、スリルや興奮。
コツコツ積み上げる幸せよりも、花火みたいにドカンと咲いてパッと散るような幸せ。
自己表現を通して世界から愛されることに、無上の喜びを感じる。
たとえひと握りの人しか成功できないとしても、夢を追いかけ、自分を狂気・狂乱の世界に捧げ、時に他人からの愛をも捨てる……。

清々しいほど、私とは違う。

私はたしかに「表現」の世界で生きる人になりたかった。だけど同じくらい、日々の中にいくつもの静かな喜びがあり、大切な人とともに平穏な毎日を送ることを望んでいる。彼らのように生きたとしたら、私は私の望む幸せを得ることはできない。

逆に彼らも、私のように生きることはできない。破滅と隣り合わせの道を選びたくなくても、選んでしまう。だから、ときに法や人道を外れて信頼や愛を失い、自分や他人の命を危険にさらし、手に入れた栄華や実績を手放さなければならなくなる。私のように、平凡だけど平穏な道を歩むことを、彼らは選べない。

彼らはすごい。私にはできない生き方をしているから。でも私だって、彼らにはできない生き方をしている。私は、私の生き方を誇っていいのではないだろうか。

『バビロン』を観て10日あまり経った今、私は自分を卑下せず、肯定できるような気がしている。

こう思える機会はこれまでも何度となくあったのだろうけど、今回ようやくそのチャンスをつかむことができたのは、この作品の描写がとても極端で、大胆で、過激だったからだろうか。

「こんなヤバい奴にはなれるわけない、なりたくもない」と諦めがついた、というか。本作のあまりに下品で強烈な描写には批判もあるというが、私はとても感謝している。


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ダンスのインストラクターとしてのキャリアに対する不安も、少し拭われたように感じている。

私は、「表現する人の成功とは、『トップに上り詰める』こと」だと思い込んでいたらしい。


トップに上り詰め、有名になり、影響力を持ち、歴史に名を遺す。それが「表現」の世界における成功だ、と。だから、そこに行ける可能性のある人しか「表現」に携わる資格はない、と思っていた。

でも『バビロン』は、「成功って、それだけじゃないのかもよ?」と思わせてくれた。それを特に感じたのは、ラストシーンだ。


映画製作者のキャリアを道半ばで諦めたマニーという男が、約15年ぶりにハリウッドを訪れ、映画館で『雨に唄えば』を観る。

『雨に唄えば』は、無声映画からトーキーに移り変わるハリウッドを舞台にした作品で、まさにマニーやネリーが生きた時代を描いている。マニーはなつかしさや挫折への悔しさ、そして、自分たちの苦労や苦悩を笑いのタネにされた怒りで涙を流す。

しかし『雨に唄えば』でもっとも有名な、 ”Singing in the Rain” が歌われるシーンをきっかけに、独特な映像が流れる。

マニーやネリーら『バビロン』の映像と、映画史にとって重要な映画の映像(超有名どころだと『ベン・ハー』『オズの魔法使』『マトリックス』『アバター』など)のモンタージュだ。

この映像ののち、画面には再びマニーが映る。彼は涙を流しながらも険しい表情を緩め、やがてゆっくりと微笑む──

この演出の意図や、マニーの心情の変化などについては、様々な解釈と賛否両論が寄せられているらしい。個人的には胸が詰まるような切なさとともに、どこか救われるような気持ちになれて、すごく好きだった。

救われたというのは、この記事でずっと書いている「表現」の世界に嫉妬と恐れを抱く自分と折り合いがついた、という感覚だ。

映画冒頭(30分もあるアバン)で、マニーは「何か大きなものの一部になりたいんだ」と語る。このセリフに応えるのが、ラストの「独特な映像」と「マニーの微笑み」ではないかと私は思う。

マニーは、トーキーへの移行の果てに愛するネリーを失い、自身もハリウッドを離れざるを得なくなる。彼は映画の世界で「成功」することはできなかった。

だけどマニーたちの営みを、映画を産業、あるいは文化・芸術という視点でみたとしたら?


「動く絵」から始まり、スクリーンで大勢で観られるようになり、長尺で作れるようになり、音がつき、色がつき、特撮やCG、VFXなどの技術で映像はどんどん進化し……。

そういう映画の発展の一部を、マニーたちは確かに担っていた。「映画」という物語のワンシーンに、彼らは確かにいるのだ。

自分は映画という「大きなもの」の一部である。その感触が、最後にマニーを微笑ませたのではないか。

功績者として名を残したわけではないけれど、自分がやったことは確かに、産業や文化・芸術、そして歴史の一部になっている。この感覚を想像したとき、私はスッと身体の強張りが和らぎ、深い安らぎに身を任せるような感じがした。

ダンスという表現の世界で、私はいったいどう生きていけばいいのだろうか。トップに上り詰めるなんて、端から不可能だと分かっている。ここは、そんな自分がいてよい世界なんだろうか。他人より劣り続けるこの世界にいて、私は苦しくならないのだろうか……。

そういう不安や恐れを、グレートマザーのあたたかい大きな手が掬いとってくれたような感じだ。

『バビロン』という作品は、「表現者として何かを成すためには、自分を捧げ、時に狂い、愛を捨てることになる」というメッセージを投げかけているように思う(デイミアン・チャゼル監督の前作『ラ・ラ・ランド』も同様だった)。

私は「表現」のために狂いきる自信はない。だから、ダンスの世界で確たる功績を残すことはないだろう。道半ばで挫折するかもしれない。

でも、それでもいいのではないか。

あるだけの才能と、もちあわせた性格で、できる限りを尽くす。自分が可能な形で自分を捧げながら、挑みたい世界を精一杯生きる。それが大事なんじゃないか、と思えたのだ。


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観終わった直後は「長かったけど面白かった」「でも、とにかく下品だったなあ笑」と感じた『バビロン』。そんな作品のことを、毎日のように考えるとは思わなかった。

私はたぶん、この作品を反芻することで、自分の中にわだかまっていた「表現」の世界への嫉妬と恐れに向き合っていたのだと思う。

登場人物たちの人生に想いを馳せることで、彼/彼女たちの破天荒さと、自分の堅実さとの違いを受け入れていった。

作品の余韻を味わいながら、トップに上り詰めるだけが「成功」ではなく、歴史や文化などの ”大きなもの” の小さな一部として、自分なりの精一杯を尽くせばいい、と納得していった。

「表現」の世界で栄華を手にするには、輝く才能と突き抜けたクレイジーさが必要だ。でもそれらを備えていないからと言って、その世界で生きる資格がないわけではない。

底なし沼のような、女神の腕の中のような、夢も狂気も喜びも苦悩も包み込み、自分の一部としてしまう。そんな偉大なる「表現」の世界を、自分なりに生きてみたいと思う。

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