
行かなきゃならなかった、ワイエス展
大学生時代の後輩がInstagramにポートフォリオとして演奏会などを投稿をしていた。わたしも参加していた演奏会があり写真を見返した。見返したけれど、戸惑いをかんじた。朧げで、あんまりスッと思い出せない。まだ2年も経っていない。
心に余裕ができてきた。倒れたまま寝転がっていたのを立ち上がっている。いま、向き合ってみる。創作に向き合っていた大学生時代に、わたしは未だ、底知れなさを感じていて、こわくなることがある。割れそうなガラスのハート、を割らないことに必死だったような
わたしには大事なことだけれどデリケートな話しなきがするのでしんどかったら読まないでください🥹すっ飛ばしてワイエスの絵についてのところまで
感情、情動で日々を紡いでいたような。
時間があちらこちら置き場所みたいで列になって並んでくれていない。おかしな話しかもしれないけれど。昨日が昨日なのか、よくわからなく、明日が今日を出発点にしてきちんと向かっていってくれるのかよくわからないような感覚。
眠ることについて不安だったりする
朝起きて、目覚めた時に産まれたような、じぶんが誰なのか確認するような
からっぽというような、コツコツ何かしても、何も積もらず、するすると通り抜けてしまう精神状態にあった
これじゃあだめだと、
ひとつのアイデアで自分の感性を道標にしようと志した。誰が好きとか、この音楽が好き。逆も然り。嫌いも。
ただ安心できない。問題は自分の感性にどうも自信が持てない。
もうひとつのアイデアは思想みたいにことばに頼ること
頑なに何か持ち、雲みたいに落ちるわたしをスッと支えてクッションになれっと。
ただ安心できない。問題は私が言葉を避けてそっぽを向いてしまうこと。
ここら辺で、自分に呆れてこちらから何かするのをやめた。心がガラスならば、映る世界をみていればいいのか、と、観ること、聴くことに捧げていた。
写ったものを写実するように描くように生きてた。とても神経質。自分が誰なのか知ることなどできないという悲観的な考え方だったからこそ、ともかく創っていたこと、上手くなりたいという行先があったわけじゃなかったため技術も乏しい、音楽をつくって、絵を描きました
小説家・今村夏子さんは小説を書く楽しさについて自分から離れていく感覚があるとお話をされていた。いっぽうわたしが求めていたのは自分が誰なのか知りたかった。因果関係が反転している。きっと答えはなくていつも入れ替わる。創作に入り浸ろうと決意をしたから。それが日常になったわたしの心の危うさだったのかも知れない。掘るというより、底がない。落ちることへの怖さから創っていた、循環。

わたしが息苦しいガラスの神経質さから深呼吸したきっかけはアンドリューワイエスでした。祖母の家で見つけたワイエスの画集を見つけてから、彼のスケッチをみたり、彼の絵を眺めると安心するようになったのをおぼえています
わたしは先週、大山崎美術館へ行き
アンドリューワイエス展へ行ってきました。彼の水彩画に感情が映し出される。写実的だと評価されていた彼だったが、彼自身は自分のことを抽象画家だと言っていたそう。ここに違和感を感じていたが、実際に近く寄って見ているとよくわかりました
わたしがかんじた彼の絵の特徴はふたつ
情動と想像力
湧き上がったものを純度が高い状態で描いているのが伝わる。荒々しい線。ザクザクとした線で、丁寧に描くというより雰囲気をグッと掴んで。
また彼は見たものを描いていたが、見えていないものも描いていたのだ。彼の想像力で。これはあした農場で知り合い、焼き鳥を一緒に食べに行かせていただいたともみさん
も同じことをおっしゃっていました
「デッサンも、デッサンとして重要だけれど想像がなければただうまいだけの人になってしまう。」
そしてその想像こそが”わたし”になり得る柔らかさだと思うようになった。
他者を想像することがテーマになってきました
その他者には自分も含んで
「抽象画はよくわからないから苦手だ」と耳にしたことがなんどもある。そういう方に是非ワイエスの絵を見てみて欲しい、、!
抽象画が何なのかヒントが隠れています

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