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ついに怪物となった哲学という人類最大のウソ

13世紀の「普遍論争(the problem of universals)」は哲学vs反哲学の闘いです。ここで哲学が勝利し、以後ヨーロッパ世界では哲学が主流となりました。恋愛も社会も哲学から設計されています。

哲学とは神聖なモノ、プラトンの創作したイデアのことだと以前に話しました。

イデア論が不自然な世界をつくる

これがややバージョンアップして、普遍論争の頃には「新プラトン主義Neo
platonism」と呼ばれるようになっています。

ですが中身はおなじ。クルマなら旧型ハスラーと新型ハスラーのようなもので、見栄えや性能が洗練されたものの、基本の思想はおなじだということです。

それでどうバージョンアップされたかというと「流出論Emanationism」という考えかたが採用されるようになりました。遠くから人間界にジャーと流出してくるということ。「流出だからイデアっぽいな」と思ったあなた、そうとう思想センスがあります。正解。

だから、ただのイデア論なんですが「そのイデアがどうやって人間界とつながっているか?」を理屈化したのが流出論です。~論だとかいってカッコつけてますが、そんなにムズカシイものではありません。

木樹も紅茶も春もまた、夕焼けも、かなたの宇宙も、すべてが不可分に繋がっている。この繋がりが、一者=to hen ト・ヘンにまでいたる。ざっといえばこれが流出論ですね。非常にロマンティックな、虹の色彩のようなイメージです。

はじまりは一者=to hen ト・ヘンであって、最低部の人間界にまで虹のように色彩を変えながらイデアが降ってきている状態です。だから「私」が「走る」ではない。はじめに「走る」があり、「走る」が「私」に憑依した。そう認識する状態をみちびきます。イデアが降ってきた状態ですね。「私」が、行為の主体ではない状態。

あくまでイデアが上位であり、私の行為はイデアの結果でしかありません。より詳しく探りましょう。イスラム思想史上、最高知識人との誉れ高いイヴン・スィーナー、ラテン名アヴィ・センナ(980~1037)という人物がいます。

井筒俊彦氏によると、イヴン・スィーナーによって初めて、それまで部分的に発達していたに過ぎない哲学思考は、数学の美しさをもった1つの体系として完成しました。その体系こそがヨーロッパに流れこんでいったわけですから、やっぱりこの部分でもヨーロッパはイスラムの子供なんですね。

イヴン・スィーナーは「存在論 Ontology」を追求した哲学者です。存在論とは「どうして私は存在しているのだろう」という問いを突き詰めることです。

どうして存在するか?他者がいるから、というのが理由です。1、2、3、4、5、などという数字が、どうして存在するか。それは2が原因です。

「2」という複数性の出発がなければ、「1」などとわざわざ数える必要はない。

「男性」という生物がいるから「女性」とくくるのであって、男性がいなければ、わざわざ女性と名づける必要はない。そして男性がいなければ、環境にあわせて進化して、やがて女性の体も変化するだろう。いわばべつの存在者になるだろう。いま、ここにいるあなたは、他者との対応のうちに生きている。

これが、イヴン・スィーナー存在論の中核です。

以下はイヴン・スィーナーの存在論を、ガザーリーというこれまた重要なイスラム思想家がまとめた文章です。2という複数性の出発が、たよりないはずの私たちを存在させているといっている。こちらの文章のコトバを借りれば、私たち人間は可能的ではあるが必然的ではありません。

『イスラーム思想史』p287(井筒俊彦著 中央文庫 1991年)

存在は必然的(wajib)と可能的(mumkin)の二つに分かれる。というのはすなわち、全て存在者の存在には二種類あって、第一は存在が自分以外の何者かに依存していて、もし何者かが無いとすれば、当然それ自身も存在しない物、例えば木材と大工と腰掛ける必要と本質的なそのものの構造(すなわち「形相」)とが在って始めて存在し得る椅子のようなものである。もし今挙げた四原因の一つでも存在しないとするならば、椅子の非存在も必定である。

第二は、何等自己以外のものに依存せずに存在し、それ以外の全てのものが無くなっても、それにつれてその物も存在しなくなるということのないものである。こういう物はそれ自体が、それだけで足りている。以上の二つの存在のうち、始めの方を可能的と呼び、第二の方を必然的と呼ぶのが哲学上の慣習となっている。

蜃気楼のような存在は、他者とのかかわりゆえにこの世に出現する。男性が消えれば、同時に女性も消える。となれば次は…?同じことが終わりなき連鎖に繋がってゆくことはすぐ頭に浮かびます。男性が消えたことで、女性という名前と役割も消えたが、かつて「女性」と名づけられた「人類」という存在者は消えていない。

もちろん人類も他者(たとえば植物)と対応することで存在する。じゃあその他者はどこから………?この果てしない連鎖が、そのまま流出の逆行であり、最後には一者=to hen ト・ヘンにいたる。はじめに「神」が存在するから「私」がここにいる、という論理が成り立つ。

だから逆にいえば、他者とのかかわりに左右されない「必然的存在」が一者です。そこから私たちの下界にまで存在が流出してきている。下々は他者とのかかわりによって存在できるだけの、たよりない「可能的存在」。これが流出論です。

そして、この流出論は、現代でも世界言語たる英語のなかに残っている。副島隆彦氏は、「There is(are)〜〜」という文法は、特殊な文法だと主張しています。

「There is(are)〜〜」=「〜が存在する」とは、「はじめに存在があって、存在が個物に憑依した」と考えるべきだとの主張です。完全に流出論そのものです。「There」の「The」は神のことですね。「一者(to hen ト・ヘン)」にも入ってますがゼウスの「The ゼ」。神学はTheology。理論はTheory。

だから「There is(are)〜〜」=「神が〜として存在する」と訳せる。だからThereにくっついている、私たちが英語の授業でまず最初に習う単語be動詞(is,are,am)とは、神の存在をしめすまことに神聖なコトバなんですよ。これを「存在のbe」といいます。


『英文法の謎を解く』p80(副島隆彦著 ちくま新書 1995年)

旧約聖書Bibleの冒頭は、『太初にコトバありき。コトバは神と共にある』という書き出しである。あれが、インド・ヨーロッパ語族の世界なるものの考え方の基本である。

まず、はじめにコトバがあるのだ。そのコトバはbe(存在)である。それからコトバとしての神(God、ゴッド)が現れ(存在し)、『世界』を『在らしめた』のである。

それから、神は、自然と人間を作った。このようにして、人間も存在するようになった。ヨーロッパ哲学では、『神』を『存在(そのもの)』あるいは『限りないもの(無限)』と呼び、人間のことを『存在者』という。あるいは『限りあるもの』という。

だから私は、このI’m runnninng.『私は走ってる』のam=beも『存在のbe』だと考えればいいんだと主張してきた。まさかいくら何でもこれを『I=runnning』と考えて、『私は走りデース』などと『イークオルのbe』で考えるわけにはゆかない。


大きな大きな流れのなかで、いま私に「走る」という行為が憑依している。「走る」という、もともと存在していた行為=beに私のほうから歩み寄っている。

「存在」は、もともと全世界にあまねく広がっている。無限である。永遠の相である。世界はつねに「There is」。それが私にたまたま憑依しただけのこと。

はじめに存在があって、それから私がいる。これが新プラトン主義です。そして、新プラトン主義を中軸として哲学をつくり直していったのが、イスラム思想家イヴン・スィーナーということですね。

あと、これものちの普遍論争に直結することなんですが、イヴン・スィーナーは「新プラトン主義にアリストテレスを融合させた」ともいわれています。ここまで来ると、もうわけがわからん。なんでプラトンとアリストテレスを融合できようか?

プラトンが、哲学という天上の思考様式を発明しました。それときわだって対照的なのが弟子のアリストテレス(前384-前322)で、彼が追求したのは地上の思考様式です。プラトンがタテ方向の追求ならば、アリストテレスはヨコ方向を追求したんですね。ところでアリストテレスのヨコ追及のほうが、古代ギリシアでも一般的でした。

異端なのはプラトン、ピタゴラスというタテ追及のほうです。メインストリームであるヨコの、きらびやかな地上思想の影で、タテ追及の天上思想はひっそりと生まれたのです。陽のあたらない路地裏の思想として。

だからいくらプラトンの弟子だからとはいえ、アリストテレスに濃厚なのはヨコ追及の地上思想のほうです。まして古代ギリシア思想の全統合者の一面をもつアリストテレスですから、いやおうなく地上色が濃い。そのアリストテレスの重要な著作に『ニコマコス倫理学Nicomachean Ethics』があります。

『ニコマコス倫理学』の内容をひとことでいうとイコールバランスが自然界のルールだということです。これは日本語翻訳では「中庸」というコトバであらわされ、いうなれば「何事もほどほどがいちばんだ」という、まことに平々凡々な結論になってしまうわけですが、「イコールバランス」とコトバを変えることで、アリストテレス思想を深堀りできる態勢がととのうわけです。

中庸とはイコールバランスのことです。このへんのことは鴨川光氏という在野の研究者が『アリストテレス著「ニコマコス倫理学」―エクィリブリアム、「中庸」の思想』という文章でまとめてあります。web上で読むことができます。

イコールバランスが自然界のルール。自然界も人間界もイコールバランスで成り立っている。熱いものと冷たいものをくっつけると熱移動が起こって、2つはおなじ温度になる。これは自然界のイコールバランス。欲しい本のかわりに対価としてお金を払う。こっちは人間界のイコールバランス。たったこれだけのことがアリストテレス『ニコマコス倫理学』の中身なんです。

いやもっといえば、人間は自然の一部である以上、上記文章のように自然と人間を分けるのもおかしい。自然界がイコールバランスである以上、人間界もイコールバランスをとらないとマズイ。バランスとれなければ破綻はまぬがれえない。だから、自然ほど立派ではない人間は、人工的な「配分的正義」で人間界を支える、それは4つの力点と作用点から成る、だがそれは人工ゆえに改変可能、とかいろいろあります。でもそれは今ここで話すべきことではないので割愛します。興味あるかたは鴨川氏の文章を検索して読んでみてください。

私がいいたいのは「イコールバランスとは、つまり2という複数性の出発だろう」です。2が揃わなけりゃイコールもバランスもないんだから。ということは……?おぼえているでしょうか。イヴン・スィーナーが存在論の中核としたのも、2という複数性の出発でしたね。

ただ前回の話では、スィーナーは新プラトン主義の方向、すなわち天上のタテ方向に2という複数性をつかったという話でした。男性がいるから女性がいて、男性が消えれば女性も消えてただの人類になって、最後は善のイデアであるto henにいたって、という流出論の逆行。

そうではなくて今回はヨコ方向なんです。あくまでも地上の方向に考えています。ところがヨコ方向に考えても、イコールバランスであるところの2という複数性の出発が、自然ルールとして見えてくる。タテもヨコも2からはじまるんですよ。だからイヴン・スィーナーにおけるプラトンとアリストテレスの融合とは、2を十字線の中心にすえて構築されたものだということが考察できます。

2という複数性の出発が、タテ方向ならプラトン、ヨコ方向ならアリストテレスなんですね。この「2からはじまる十字理論」は私が確認した範囲においてはどこにも書かれていないので、このままどこにも記述がなければ私の発見した理論になりそうです。あるいは、まったく的外れの解釈であるなら、だれか指摘してください。

とはいえ。どうでしょう。ものすごい理屈ですね。理屈だけで巨大な建造物のよう。というより怪物っぽいですね。プラトンとアリストテレスの融合というキメラ的思想怪物。そして、これがそのまま成長期のヨーロッパへ輸出されたのです。

RPGの初めからフル装備の主人公みたいなもので、ここで「哲学vs反哲学」ですからね。そりゃ哲学側が強かったでしょう。ヨーロッパ最大の思想闘争「普遍論争」は、哲学=イデア側の勝利に終わります。イヴン・スィーナーのキメラ的思想怪物をうけついだトマス・アクィナス(1225-1274)が、最終的に反哲学をうち破ります。

ここでできあがった十字理論の体系は、「スコラ哲学」といって、現在の学問区分の原型となりました。スコラはスクールschoolの語源。アリストテレスをとりこみ十字に広げることで、天上の権威だけではなく地上の世俗生活、私たちの生活のすみずみにまで干渉することができるようになりました。

ヨーロッパのキリスト教は、もともとが「キリストのものはキリストへ、カエサルのものはカエサルへ」で宗教と世俗をバッサリ分けてきたことに特徴がありましたが、この十字理論によって宗教が世俗へ介入できるようになったんです。これが初期の、人間でいえば中学校1年生くらいだったヨーロッパで起こったことです。以降、欧米世界はつねに哲学=イデア側が勝利する歴史になりました。


第8回終わり

次回 近代の宗教「時間」

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前回の文章はこちら↓

13世紀の世界大戦〜モンゴルvsイスラム〜


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