見出し画像

13世紀の世界大戦〜モンゴルvsイスラム〜


1258年、バグダッドは破壊されつくしました。あのバグダッドが、です。アッバース朝の絶対的中心、つまりは当時の世界一の大都市、正確には、破壊された当時はやや勢いを落として若い国の勃興もあったので、現代でいえばロンドンのような都市。

モンゴル軍の襲来でした。子供もふくめて大量殺害、レイプも横行、ティグリス・ユーフラテス川は血で真っ赤に染まり、知恵の館の、世界最高峰の研究がつまった書物も焼きすてられ、今度は川がインクで真っ黒に染まったといいます。知恵の館はアッバース朝初期から400年つづいたイスラム世界の英知の結晶でした。もしかすると私たち現代人には知りえない、べつの人類の可能性がここで消え去ったかもしれない。

このときからが世界大戦だと私は見ています。当時の世界覇権国イスラムに、若き獰猛なモンゴル帝国が挑むカタチです。あとはちょろちょろと火事場泥棒みたいな感じで十字軍もイスラム世界を荒らしていきますが、大枠はイスラムvsモンゴルです。

モンゴルは強かった。だがイスラムも負けてはいない。巻き返しはエジプトから。ここにエジプト・マムルーク朝の王、ルクヌッディーン・バイバルス(1223~1277)が登場します。

イスラム最後の砦バイバルスは、現在のパレスチナで、名実ともに世界最強のモンゴル軍をけちらします。なんとモンゴル軍戦術を会得して勝利をたぐりよせたらしい。古今東西、名将はいつも最強の敵から学んで勝利します。たしか、ハンニバルを打ち破ったローマのスキピオ・アフリカヌスもハンニバルを軍事学の師匠と仰いでいたはず。

バイバルスが世界大戦の勝者です。不安定だったユーラシアの版図を確定させます。現代イスラム諸国においてバイバルスは、有名なサラディンとならぶか、あるいはそれ以上の英雄待遇を受けているそうです。

いくつか資料を読みこんでわかったことがひとつあります。秀才ヨーロッパ人は、バイバルスのことを嫌っています。マムルーク朝のことも嫌いです。できることならふれずにすませたい、とでも思っているかのようです。十字軍を再起不能にしたのもマムルーク朝ですから。軍人王朝だとか専制国家だとか、ほのかにナンクセをつけているようにも読めます。

しかし私には、政治体制のよしあしは判断できません。神政政体がいいのか、民主政体がいいのか、ということなども判断しかねます。なので純粋に「果たした役割」だけを見ています。結果、「マムルーク朝のバイバルスこそ、イスラム史のみならず世界史における超重要人物である」と私は考えています。

『世界に広がるイスラーム(イブン・バットゥータの世界)』p221家島彦一著 板垣雄三監修 悠思社

当時のイスラーム世界はシリア・エジプトを領有したマムルーク朝政権を主軸として、一つの大きな政治的統合をなしていたのである。

そして、この軍事・政治・外交上の秩序は、カイロをネットワーク・センターとして地中海からインド洋に連なる東西間の国際交通ネットワークの広がりとも一致していた。

※中略

とくに、一二八八年、スルタン=マンスール・カラーウーンは、国際交易の振興に努力し、
東は中国の元朝、デリー・サルタナの諸王朝、スィンド、イエメンなどの支配者・有力者たちに宛てて新書を送り、通行と滞在、商売の安全を保障した証書(スーラ・アマーン)を発布することで、マムルーク朝を中軸とした国際交易システムの確立を目指した。

バイバルスが確定させた世界秩序。バグダッド亡きあと、ペルシア湾からのルートがさびれました。かわりに紅海からのルートが育ち、それを成し遂げたのがバイバルスのマムルーク朝だったというわけです。

前回3つの道、北方ルート、中央ルート、南方ルートを引用しましたが、イスラム世界の大動脈が中央ルートから南方ルートに変わったということです。

詳しくはこちら→イスラムが成し遂げた世界史の誕生~イスラムからヨーロッパは生まれた~

マムルーク朝は、エジプト・シリアが拠点です。紅海と地中海に面しています。つまり、アブー・ルゴド氏のいう、南方ルートの支配者です。まるで「紅海さえあれば、あとは何もいらない」とでもいいたげな版図が、マムルーク朝の支配地域です。


南方ルートは、地中海国家と深くつながっている。なかでもイタリアのヴェネツィア共和国(697-1797)がマムルーク朝と蜜月の関係をきずきます。有名な水の都ヴェネツィアの背後には、巨大なマムルーク朝がそびえていたということです。

『ヨーロッパ覇権以前 ・上』p154ジャネット・L.アブー=ルゴド著

この戦略は、(※引用者より。ヴェネツィアによるマムルーク朝へのすり寄りのこと。)一二九一年に、マムルーク朝が、十字軍王国の「首都」であり帝国内のヨーロッパ最後の拠点アッカーを奪回し、サラディンの事業を完成させたとき、大きな重要性を帯びることになる。

[十字軍という]「大冒険」への終止符は、交易ルートとパートナーのよりいっそう劇的な再編を要求する。マムルーク朝エジプトは、海上東方交易の枢要な中継地点となった。

こうして、香辛料交易に対して独占的支配権を獲得しようと努力するヴェネツィア交易商人と、関税と通行税によって有利な条件を得ようと努力する、同じく独占的なマムルーク朝国家との、奇妙で相反的な関係が始まったのである。

スッキリしない書き方ですが、つまりはヴェネツィアはマムルーク朝の軍門にくだったといっています。「奇妙で相反的な関係」なんてヘンないいかたをしますね。税金を奪うほうが権力者ですよ。こういう物言いは、やはり十字軍がマムルーク朝に完全敗北したからこそでてくるコトバです。

だからマムルーク朝が親分でヴェネツィアが子分。つまり副島隆彦氏の提唱する「帝国=属国理論」です。ヴェネツィアは、帝国マムルーク朝の属国だったと私は判断しています。

だから、このあたりのヨーロッパ史のウンヌンはつねにマムルーク朝からの視点で語られなければならないのであって、とくにイタリアにおいてそれは著しい。やっぱりイタリアなんですよ。ヨーロッパの玄関はつねにイタリアです。

そんなイタリアは13世紀の当時、多国籍企業集団そのものです。フランスのブルージュなどはイタリア多国籍企業が撤退した瞬間に没落しました。イタリアは、バブル時の日本のように瞬間的に巨大な経済規模をもっていました。そういう意味で、アジアの特攻隊長だった日本は、ヨーロッパの特攻隊長イタリアと似ているともいえる。

イタリアは、ヴェネツィアのような海洋国家が貿易を、内陸国家が金融と工業を、というように分業体制を確立していました。金融と工業の内陸国家こそ、イタリアのフィレンツェです。フィレンツェこそルネサンスの舞台。しかしルネサンスはまだ先の話だ。

このようにヨーロッパ経済の最初期(9世紀以降)にはペルシア湾の中央ルート、13世紀にはさらに2つの道、北方ルートと南方ルートが追加されたことで、イタリアをはじめとしたヨーロッパ諸国は育っていきました。そしてまさにヨーロッパ史が軌道にのったのが、世界大戦のあった13世紀。

シチリア島のイスラム化からすでに400年がたっている。もう十分に栄養をたくわえ骨格もできてきたヨーロッパにて、これからの未来の青写真を描く論争がおこなわれるようになります。それが、ヨーロッパ世界最初にして最大の思想闘争、「普遍論争(the problem of universals)」と呼ばれるものです。

第7回終わり

次回「哲学の勝利~イデアはキメラ的怪物へと進化した~」

――――――――

前回の文章はこちら↓

イスラムが成し遂げた世界史の誕生~イスラムからヨーロッパは生まれた~

いいなと思ったら応援しよう!

キョー@《裏》社会科
支援ありがとうございます。最高品質でお届けします。