世界のエリートだけが知っているガチの哲学について話そうか。
文学部哲学科を卒業した友人がいうには「哲学者に就職さきなんてないよ」。
そりゃそうでしょうね。哲学なんていっても、そもそもなんのことなのかわからない。だから「哲学者です」なんて名乗っても、イコール「何をやってるかわからない人」になってしまう。
哲学は、ここ日本ではほとんど変態マニアックな文学の一形態となされているんでしょう。ただコムズカシイだけの屁理屈として。けれどね、哲学とは「文学部哲学科」なんて意味不明のカテゴリーに封印されるモノではないんですよ。なんで文学のなかに哲学があるのかっていうね。世界のエリートから見れば失笑モノの事態が、ここ日本では当然のこととしてまかりとおっている。
哲学は、世界のエリートたちにとってみれば、人間界を上手に統治するための最高峰の秘儀です。経済学や物理学から、あるいはそんな高尚な学問でなくっても、恋愛や仕事もそうですが、これらぜんぶ哲学の設計のうえに成り立っているモノです。
私たちの人生そのものが「フィロソフィーPhilosophy=哲学」のつくりあげた世界に乗っかってるんですよ。まずは、そのことだけ知っていてほしいと思います。だから、文学なんて小さなカテゴリーに収まるようなモノではなく、むしろ全知識体系の頂点に立っているのが哲学であり、だからこそ世界のエリートだけが哲学の本当の姿を知っています。
さらに私がいいたいのは、哲学とはろくでもないモノだということです。世界のエリートだけが知っているだなんて、イヤミもいいとこじゃありませんか。哲学は、人間にとって不自然な考えかたなんですよ。人間をひきこもりにする、統治グループにだけ都合のいい詭弁です。
『反哲学史』p102 (木田元著 講談社 1995年)
ソクラテス、プラトン、アリストテレスというギリシア古典時代の三人の思想家のもとで、自然に包まれそのなかで生きているいかなる自然民族にもかつて生まれなかったような不自然な思考様式、つまり『哲学』が世界史上はじめて形成され、軌道に乗せられたことになります。
その超自然原理、形而上的原理は、その時どき『イデア』と呼ばれ、『純粋形相』と呼ばれ『神』と呼ばれ、『理性』と呼ばれ、『精神』と呼ばれて、その名を変えてゆきますが、この思考パターンそのものは、その後多少の修正を受けながらも一貫して承け継がれ、それが西洋文化形成の、いや少なくとも近代ヨーロッパ形成の基本的構図を描くことになるのです。
記念碑的文章ですね。同著の木田氏は、哲学そのものを否定しています。人間の自然にそむいているからです。『反哲学史』というタイトルからしてなんだか過激。だがこれは、今も昔も思想をになう人たちにとってはあたりまえの話なんですよ。
「哲学vs反哲学」という図式があります。この対立の理解が最重要。なにもムズカシイことはなくて、2つの勢力が対立している、とだけ知ったならそれでもう世界のエリートだけが知っている本物の哲学理解に到達しているんです。
もう少し掘り下げましょうか。
アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド (1861年-1947年)というイギリスの哲学者は、『過程と実在(Process and Reality)』(1929年)にて「西洋哲学はすべて、プラトンの脚注である」といいました。
ホワイトヘッドがいうように、哲学の元祖は、古代ギリシアのプラトン(前427-前327)だと考えていい。そしてフリードリッヒ・ニーチェ(1844-1900)という現代日本でもよく知られるようになった人は、反哲学者ですから。だからニーチェはプラトンのことが大嫌いで、ことあるごとにこき下ろしている。
ニーチェはプラトンを「偽善者」、「人間の自然を殺してしまった奴だ」と筆誅をくわえつづけます。それはもう狂人のように。実際、晩年のニーチェは気が狂ってしまいました。梅毒による進行性麻痺だったようです。
そしてこの文章を書いている私、松村享もニーチェとおなじ反哲学の立場です。発狂はしちゃいません。ご安心ください。だからそう、私もまた、プラトンは人類史に「不自然さ」を導入した人物だと理解しています。ソクラテス、アリストテレスにかんしては私は否定しません。この2人が、人間に不自然さを強要したのだとは私は思っていません。ニーチェはソクラテスをも嫌っていましたが、この部分では私とニーチェは異なります。
「不自然」という表現は現代日本人にもよくわかると思いますよ。現代日本人も、つまらない学校いって、安月給のサラリーマンやって、消耗しながら恋愛がんばって、というテンプレートのなかを生きてるけども、ここの不自然さと窮屈さにガマンできない人々が、いまは地方移住して農業やって、などと人間の自然状態に還ろうとしていますね。『ウォールデン森の生活(Walden, or Life in the Woods)』(ヘンリー・デイヴィッド・ソロー著 1854年)という反哲学の古典がありますが、まさにその体現が21世紀初頭にあらわれた。
現代人はうつ病の人間が多いから。不自然に生きてりゃそりゃ不健康になりますよ、体も精神も。先進国の病。
この先進国特有の、不自然で不健康な人々のこともニーチェは活写しています。キリスト教徒の精神構造を書いたものですが、私にいわせれば、往年のキリスト教徒とおなじ精神構造をしてるんですよ私たち現代人は。どっちもうつ病です。
『現代語版アンチ・クリスト キリスト教は邪教です!』p73(ニーチェ著 適菜収訳 講談社+α新書 2005年)
キリスト教信者の精神構造はこうなっています。内側に引きこもって、神経質にものごとを考えていると、不安や恐怖に襲われる。それが極端になると、現実的なものを憎み始めるようになる。そして、とらえようもないもののほうへ逃げ出していくのです。
また、きちんとした決まりごと、時間、空間、風習、制度など、現実に存在しているすべてのものに反抗し、『内なる世界』『真の世界』『永遠の世界』などに引きこもるのです。
『聖書』にもこう書いてあります。『神の国は、あなたの中にある』、と。
現実を恨むのは、苦悩や刺激にあまりにも敏感になってしまった結果でしょうね。それで『誰にも触って欲しくない』となってしまう。
神経質になって悩み始めると、なにかを嫌うこと、自分の敵を知ること、感情の限界を知ること、そういう大切なものを失ってしまいます。それは自分の本能が『抵抗するのに、もう耐えきれないよ』とささやいていると感じるからでしょう。
彼らは最終的に、現実世界とは別の『愛』という場所に逃げ込みます。それは、苦悩や刺激にあまりにも敏感になってしまった結果です。実はこれがキリスト教のカラクリなのです。
つまり「愛」という名の自閉空間にひきこもっている状態。現代人もキリスト教徒もいっしょ。うえの文章を読んで「こういう恋愛してる人っているよなあ」と思いませんか。ややストーカーぎみの思考回路。
そもそもが絶対の愛なんて、ありえない神聖世界ですよ。愛だってもっとゆらめくがゆえに尊い。汚い部分、臭う部分、それも当然あります。それが自然だからです。
「愛」を絶対の不動の聖なるモノにしてしまうから偽善だし不自然なんですよ。そんなモノはないんです。だが人はつくりだしてしまう。うつ病ゆえに。
人間にはモノゴトを抽象する能力、ありもしないモノを脳内でつくりだす能力があります。1や2という数字も抽象ですね。だがこの能力がまちがったつかいかたをされてしまうと、それは妄想となり世界そのものの見えかたさえも変えてしまいます。人間は幻想にとらわれる動物なんです。
幻想動物ゆえに、本来「ない」ものを「ある」としてしまう。絶対の愛なんていう幻想をつくりだしてしまう。本来ないものをあるとする。この部分を理論化したものが、プラトンのイデア論だったわけです。イデア論は、うつ病患者によく効くんです。
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第1回終わり(全20回)
次回「不自然の元凶・イデア論」へつづく。