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社会に壊された人々へ

「社会」の絵を描けますか?


「社会」の絵を描いてください。

といえば、ある人はビルの群れを思い起こすかもしれない。ある人は交差点を行きかう人々を思い起こすかもしれない。

でもそれ、ビルであり人であって社会ではないですよ。私は小さなころから「社会」というコトバの意味が分かりませんでした。ものすごくボンヤリした地球みたいなのが頭に浮かぶけど、でも「社会」は意味不明でした。「社会」は描けません。それもそのはず。社会は思想だからです。思想を描けるわけがない。概念なんだから。

社会は思想です。人の群れがたんなる群れを越えて幻想肥大したものを「社会society」と呼びます。第2回目の話ですね。

第2回目→イデア論が不自然な世界をつくる

たんなる個人の寄せあつめじゃないんですよ。ひとりひとりが経済活動することで、部分の寄せあつめを越えて「社会society」になります。銀行の信用創造なんてその最たるものですが、いきづまったなら現在の状態から肥大化することが可能です。

これは社会実在論なんて呼ばれていますが、第2回目で述べたように実在なんていいかたじゃ意味がわからないので、聖なるイデアの思い出のなかに人々があつまっている、と解釈すればそれでいい。イデアの写し絵としての人のあつまり。理想に果てしなく近い人々の群れ。これが「社会society」です。

だから実在や哲学というコトバには、神聖なイメージを持っていればいいんですよ。日本語のニュアンスじゃどうしようもなくこむずかしい印象ですが、世界のエリートの頭のなかでは、実在や哲学は天上的に神聖なるものです。

キリスト教の中核には「予定調和pre established harmony」という考えが潜んでいます。これはプラトンのイデアがキリスト教でアレンジされたものなんですが、それでも「予定調和」じゃ、こむずしいだけで意味がわかりませんよね。

では原語のpre established harmonyを意訳してみれば「あらかじめ奏でられていたハーモニー」ですよ。神聖なるイデアが人間界に降りそそいで音楽を奏でている。白く輝く天上世界。この神聖さこそが哲学理解のキモなんです。

だから社会societyも天上的に神聖なるものとして設計された。社会societyというイデアが史上はじめて降りそそいだ街が、19世紀フランスのパリです。

立役者はアンリ・ド・サン=シモン(1760-1825)。フランスで名前と苗字にあいだに「ド」が入るのは貴族だけです。サン=シモンも妙なタイミングで貴族として生まれたもので、この時代はフランス革命の醜悪な平等思想が王さえもギロチンにかけた時代。

世にいうフランス革命にちょうど生まれあわせてしまった。不世出の英雄ナポレオン・ボナパルト(1769-1821)より9つ歳上であるだけだから、貴族のサン=シモンはモロに革命の波を受けてしまっています。

血みどろの戦争にナポレオンは敗北、折しも革命以来、国内は荒れに荒れてナポレオンのカリスマだけで成り立っていた時代ですから、敗北なんてしてしまえばフランスはただの荒廃地域。秩序はうしなわれ、新たなルールもなく、誰も安全に暮らせなどしなかった。

そんな時代にサン=シモンが構想したのが「社会society」。新たな秩序をうちたてよう。それは革命ではなく教会でもなく、まして打倒したはずの王の力でもなく、社会参加の個々人がつくりあげる秩序だ、と。

『世界の名著42 オウエン サン・シモン フーリエ』p322-p323(後島茂・坂本慶一責任編集 中央公論社1980年)

無知な時代には、国民活動の管理はもっぱら軍事的であって、産業的管理は副次的なものでした。この時代には、社会のあらゆる階級は軍事階級に従属せざるをえませんでした。実際に、この時代の社会組織はそうしたものでした。そして、もし社会組織がそうした割り切った、排他的、絶対的な性格を持っていなかったならば、それは不都合なモノであったのです。

文明の進歩は、フランスにおける人民の管理が本質的に産業的である、といった事態をもたらしました。だから、産業社会級はすべての階級のうちの第一階級を構成しなければなりません。だから、ほかの諸階級は産業社会級に従属しなければなりません。

※中略

産業者は社会の第一階級となるでしょう。最も重要な産業者が、公共財産の管理を指導することを無償で引き受けるでしょう。法律をつくるのは彼らであり、他の諸階級がたがいのあいだで占める地位を定めるのも彼らです。彼らはほかの諸階級の各各に、それらの各各が産業にもたらす貢献に比例した重要性を認めるでしょう。そのようなことが、必ずや現在の革命の最終的な結末となるでしょう。

サン=シモンを崇拝していたナポレオン3世(1808-1873)は、サン=シモン死後30年ほど経った頃、パリ大改造に着手し見事これを成功させました。それまでのパリはどうしようもなく汚かったんですよ。なんの計画もなく自然発生的に家や店がボンボン建っていって、しかしなんの計画もないわけですから、日あたり最悪、糞尿も生ごみもそのへんに放置するわ、ある意味地獄のような場所でした。

だからここをスクラップ・アンド・ビルドでいったん全破壊したんですね。それでできあがったのが現在の花の都と呼ばれるパリです。街ができあがることで「社会society」の土台ができた。

あともう1つ忘れてはならないのが通貨ですね。信用に足る通貨がないことには社会は成り立たない。こちらのサイトがおもしろいデータを出してくれています。Antiquecoin.jp

リンク先のグラフは、1850年から1870年にかけてのナポレオン金貨の発行量の膨大さをしめしてくれています。もともとはStandard Catalog of WORLD COINS 1801-1900というところから引用されている模様。孫引きですが、以下に引用します。

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出典 https://www.antiquecoin.jp/products/napoleon3.html

引用元 AITIQUECOIN.JP

1850年から1870年といえばピッタリとパリ大改造と時期がかぶっています。やはりこの時期にナポレオン3世(英雄ナポレオンの甥、ということになっている)がサン=シモン主義にもとづいてフランスの復興を行動に移していたことがわかります。


日本人は社会に殺される。思想としての社会を知らないから


通貨=マネーは、すべての人々を「平等」の立ち位置に再編成します。1万円には1万円のサービスを、10万円には10万円のサービスを提供する。そうやって、お互いにバランスをとっている。私たちの時代のような、マネーにもとづく社会societyにおいては、貴族も平民も存在しない。みんな平等だ、ということになっています。これは、そのまま民主政democracyのことでもある。

貴族たちの血縁や地縁、そんな不平等なものを蹴散らして、ただただマネーのもとに平等である、とするのがフランス革命以来のルールになりました。一応。

だから欧米人の友人がいる方は、彼らの飲食店などでのふるまいを見ていればわかるように、店員にたいしてフレンドリーな人が多いですね。初対面だからといってけっして失礼なふるまいはしない。それはマネーにもとづく平等契約、という思想が骨身にしみこんでいるからです。

いっぽう、日本人はといえば店員なんか人間ではない。店のドアを開けて客になった瞬間、冷酷な人格が出現。ただし田舎の顔見知りの店なんかはちがいますよ。ここでは日本古来の共同体communityの精神が顔をだして、人格はもどり、気さくないいひとに生まれ変わります。

だが都市部、すなわち社会societyにおける日本人のふるまいはどうか。まだ生息していますよね。店員を人間あつかいしない人。

私の東京暮らしの当時、ひとりでよく外食をしていましたが、たまに横柄な客を目撃することがありました。なにやら大声のタメ口で店員に口をきいている。太った体でふんぞり返っている。私は、文化人類学者のマネをして、ずっとその横柄な客を観察しつづけていました。「金を払っているのだから、俺がエラいんだ」という感じです。

だがよくよく考えてみれば、店と客との関係は、マネーにもとづく契約であり、マネーにもとづく以上、店と客は対等のはずです。マネーとは、すべて人間を平等にならすことに特徴がある。社会においては、売り手も買い手も、だれもかれもが平等なんですよ。だから店員もおかしい。ヘエコラする必要はない。

結局、どちらも「上の者が下の者に金を払ってやる」という地域共同体に独特の感覚のままに行動している。こんな光景は、日本のどこでも、そこかしこに見られる現象でしょうね。

「日本人は社会を理解できていないのに、社会で暮らしている」という構図があります。日本人は社会がわかっておらず、古来の共同体精神しか身になじまない。にもかかわらずフランス生まれの社会を強要される自己矛盾。

日本人は社会を理解できていません。「社会society」とは、近代における最大の信仰です。だから、現代日本の社会人は、自分が巨大な信仰の、敬虔なる信徒なんだということを知るべきです。毎朝毎朝、決まった時間に出勤するあなたのその行為は、ローマ・カトリック教会にひざまづく中世のカトリック信者と、なにも変わりません。現代日本人と中世西洋人は、まったく同型の精神構造をもつ。

清く正しい、笑顔マシーンのような営業マンもまた、社会の輸入に失敗した人間です。社会という魔界の中では、とるべき手段、ふるまうべき行動がわからない。だから笑顔マシーンというパターン化された類型が現れるんですよ。

社会とは、生まれ変わったキリスト教そのものなんです。近代という妙な時代にあわせて、つまりは、マネーがメジャーになった時代にあわせて、キリスト教は、社会という姿へと変貌しました。キリスト教の生まれ変わりである社会の、アジアでの初輸入は、戦後日本でした。アメリカの戦後統治において、日本にキリスト教が輸入されました。

しかしですよ、キリスト教、もっといえばGodやイデアの喜びなど、日本人にはもともと理解不可能です。喜びなんかありません。むしろ魔界です。Godって誰ですか。私たちは、東アジアの島国の、隔離されたおぼっちゃま民族です。ずっと国を閉じて生きてきた。だからGodなんか知りません。イデアなんて知りません。

だから笑顔のフリをするしかない。清く正しい笑顔マシーンになりきるしかない。その内面はズタズタに引き裂かれて、ネットに癒しを求めて、陽がのぼれば再び笑顔マシーン登場。

「社会人」いうパターン化されたキャラクターが、現代日本には定着しています。はじめて街にでたおぼっちゃまが、いじめられないように、すれちがう人々の身のこなしから言葉づかいまでマネをしているのですよ。マネをあつめてあつめて、パターン化しました。パターン化の極端な例が、とびきりの笑顔マシーンですね。

そして哀しいことに、日本人のこのパターン化の性質について、とっくの昔に文化人類学者ジェフリー・ゴーラーは見抜いていました。手のひらのうえで遊ばされているんですよ私たちは。


『日本人の性格構造とプロパガンダ』p64(ジェフリー・ゴーラー著 福井七子訳 ミネルヴァ書房 2011年)

日本人は理解や管理できない環境においては、不安を感じるということはすでに述べた。そうした環境に備えて、予見できるすべての状況に適した、もっとも巧妙で形式的な行動パターンが日本文化には発達している。

これらの行動パターンに従いさえすれば、日本人には怖いものはなく、陽気で楽しくいられる。

しかし、これらの行動パターンに従うことは、各個人に相当な自己抑制やさまざまな攻撃的な感情、憂鬱な気持ち、血気盛んな感情といったすべてを捨て去ることが求められる。

一般的にどのような感情も表現することは誤っている。痛みや喜び、うれしさや怒りなどの感情表現は許されず、そうした感情は予想できないことなので、自らが先立って捨てることにより、他人も同じように放棄するという保証が得られる。


完全にロボット型サラリーマンの出現を予測していますね。ゴーラーは、すでに80年の昔に、笑顔マシーンの出現を見抜いていました。社会人、笑顔マシーンに見られる日本人の、巧妙かつ形式的な行動パターンの出現は、おぼっちゃまが外界から自分自身を守るためだったんですよ。

これすべて、社会が日本人の身になじまない、意味不明だからです。A型のカラダにB型の血液を注入するようなもので、バグが起きているんです。だから日本の社会は社会ではなく、社会と共同体の混合した魔界なんですよ。それも遠因は、哲学の歴史がないからです。マネーの意味をわかってないのです。

聖なる絶対神・マネー


お金、といえばなんだか薄汚れたイメージがあるでしょう。お金とか通貨やら呼びかたがいろいろあるのでここではマネーと呼びます。

汚れたイメージのマネー。だがマネーもまた、「哲学」や「実在」や「社会」と同じく、神聖なニュアンスを持ってつかわれてきたコトバです。なぜってマネーは、神聖なるイデアを人間世界に出現させる道具なんですよ。

はるか過去、古代ローマ帝国では、主神ジュピターの奥さんであるジュノーの神殿がコインの造幣局であり、そこでつくられたコインには「Juno Moneta」と刻まれていました。Monetaと入っています。これがマネーmoneyの語源。

このモネタ、古代ギリシアの詩人ホメロス著『オデュッセイア』がラテン語に翻訳される際に生まれた呼び名で、原語のギリシア語では「ムネモシュネ」だったという説があります。このモネタ→ムネモシュネ論にかんして「暗黒の女神-現代文明批評」(ロバート・グレイブズ著)にて言及があるようだが、この本は現在絶版で私の手には入らなかった。どこかべつの書においても言及されているかもしれません。

さてモネタからのムネモシュネ。ムネモシュネは「記憶」をつかさどる古代の女神。記憶をいいかえて「想起anamnesis」。「想起anamnesis」でアナムネーシスですよ。ムネモシュネとアナムネーシス。おなじコトバですね。彼女は9人の芸術女神・ミューズたちの母。ミューズは、ミュージックの語源ですね。

それで母であるムネモシュネのつかさどる「想起anamnesis」とは、私はもうズバリ断定しますが、予定調和pre established harmonyのことです。以前にふれましたね。「あらかじめ奏でられていたハーモニー」のこと。人間世界に降りそそぐ音楽。

絶対のイデアが音楽となって降りそそぐ。哲学者たちが陶酔する、あまりに神聖なる世界のことです。絶対のイデアの想起、思い出。それがムネモシュネ=マネーです。実際にプラトン著「テアイテトス」191Dにてムネモシュネが話題にあがっている。ところで191Dというのは、どこの出版社から出ていても対応しているページ番号なので、興味ある方は読まれるといい。古典の思想書はこういうページ表記をします。

だからイデア→ムネモシュネ→モネタ→マネーというふうに現代まで届く神聖さの連結現象がここに見られるわけです。だからやはり、マネーは神聖さを帯びながら19世紀のパリに舞い降りたと考えればいいんです。

「社会society」の創始者サン=シモンは、マネーを媒介にしてできあがる産業社会を「新キリスト教」と呼びました。

『サン-シモンの新世界 下』p442~p443 (フランク・マニュエル著 森博訳 恒星社厚生閣 1975年)

将来の産業的科学社会では、精神的なものと世俗的なものとのあいだの緊張はすべて排除されるであろう。ちょうど、キリスト教的心身対立論が新しい調和的人間像を生みだすべく運命づけられていたように。

有機的なものと批判的なものとの律動(リズム)は、全時代を通じて永遠に続くのであろうか。人間は無限の循環と危機とを通過しなければならないのであろうか。

サン-シモンの答えは、はっきりしていた。新しい有機的な産業的科学的体制が「最後の体制」だろう。その開幕とともに、循環は終わり、人間はこれまでに知られたようなものとしての歴史がもはや存在しなくなった黄金時代に入るであろう。

至福千年の王国に到達したので、そこには成長・成熟・衰退の新しい循環という意味でのさらなる発展はおよそありえないであろう。循環が螺旋状的に進みながらめざしてきた目標と目的とが、達成されたのだ。

サン-シモンが生きている時代の批判的過渡期は、最後の闘争期だった。黄金時代は、もはやいかなる生活循環ももたぬであろう。けだし、それは地上における真の天国だからである。

※中略

新しい綜合へのアピール、新時代の開幕へのアピールは、サン-シモンの晩年に有能な若者たちを魅了した彼の思想の中心的側面であった。これら若者たちはすべて、有機体のように全体が統合され調和のとれた文化を、当時の過渡期の終焉を、切望した。

彼らの知的欲求と情熱的欲求とを一挙に満たすことを約束した「批判の余地なき」イデオロギーに魅せられて、すぐれた一群の人々が、サン-シモンの死後にその教義のまわりに結集した。ペレール、ロドリーグ、ミシェル・シュヴァリエ、バザール、デシュタル、等々。若きJ・S・ミルは、サン-シモン派のおしゃべりの多くに辟易させられたけれども、その彼でさえ、一八三〇年代初期には、この体系と軽い恋愛遊戯にふける以上のことをした。

身を守ってくれるような「有機的」なものの温かさへの激しい願望が、一八三〇年代および四〇年代の多くの芸術家や作家ー社会の動揺・不安・矛盾に対して大方の同時代人よりもずっと敏感だった人々ーにとって、この教義を魅惑的なものにさせた奥深い原因だった。


もはやキリスト教が壊れGodもいなくなった時代の新秩序。それが神聖なるマネーを媒介とした社会だった。いいかえて新キリスト教。だから大きくいえば、死んだGodのかわりにマネーをすえおいた、ということです。

第4回終わり

次回「信仰は神からカネへ~私ら現代人をつくったのはイマヌエル・カントだ~」

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前回の文章はこちら↓

発明された「恋愛」と閉じこめられた現代人


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