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信仰は神からカネへ~私ら現代人をつくったのはイマヌエル・カントだ~

これまで、恋愛にしろ社会にしろ、イデアを土台とした信仰なのだということを見てきました。信仰なんですよ、こいつら。べつに恋愛や社会がなくとも幸せに生きられる世界もあります。

そしてこれらは、キリスト教の近代バージョンなのです。まさか近代人が、中世風の神様ごっこにつきあうわけはないから、バージョンアップでGodをリーズンReasonというものにすげかえたわけです。リーズンReasonは日本語で理性ですが、「あの人は理性的だねー。」というような、そんな生易しいモノが理性ではありません。リーズンはGodにかわるモノなんですよ。だから、なにやら神聖なイデアっぽいモノなんだと理解していればいいと思います。

リーズンという宗教のバイブル(聖書)、それが『純粋理性批判』です。イマヌエル・カント(1724~1804)の主著で、意味不明かつ、とんでもない量の文章と化して、日本語にも翻訳されています。

私も最初に見たとき「なんじゃこりゃあ…」と思いつつ読んだ記憶があります。わかったようでわかってない状態でしたね。というかあんな本にいきなり突撃しなくていいと思いますよ。

『反哲学入門』(木田元著 新潮文庫 2007年)を私はたびたび引用していますが、この本がいちばん易しく、かつ本物の、あらゆる思想の入門書でしょう。『純粋理性批判』を知りたい人も、木田氏の著書から入っていけばいい。

そもそも『純粋理性批判』ってなんだという話で。はじめにいっておくと、「純粋の理性を批判する」では意味不明なんですよ。じゃあなにが正しいのか?

「人間が生まれながらに持っている数学の能力を整理整頓しよう」というのが、本当の意味です。

『純粋理性批判』はドイツ語でKritik der reinen Vernunft。英語でCritique of Pure Reason。Critiqueが批評という意味。 日本語で批判というと、否定するというニュアンスがついてまわりますが、そうではなくて、批評するということ。「整理整頓する」という意味です。ピュアリーズンを整理整頓するということです。ではピュアリーズンPure Reasonとは?とりあえずPureはおいといて。Reasonからいきましょう。

ざっくりいうと、リーズンReasonとは、すべてのモノゴトを、数、量に換算するということです。質ではないんですよ。数、量です。これなかなか人間にできることではなくて。たとえば恋人との愛にあふれたひとときを、数式にしてどうするんだという話で。

ご近所づきあいも質。おすそわけにお金払わないでしょ。でも、なんらかのカタチでお返しします。これが質。無形資産ともいえる。マネーという「数」に変換できない世界がそこにある。

いっぽうイナカのご近所づきあいがバカバカしくて東京へ出てきた若者。見ず知らずの他人ばっかの東京。この時点で未来ある青年は、社会にでた状態。社会にご近所づきあいなんかない。すべては職種とマネーによってつながる関係。これが社会。マネーが、いついかなる時にも必要な状態。これが社会。

マネーという量換算にて、人と人がつながる状態。この状態が「社会」であり、もっといえば「リーズンの具現化」なんですね。リーズンReason、日本語では「理性」「合理」と訳されますが、そんな上辺の訳語じゃダメですね。リーズン→量換算→マネーです。

「お金は汚いものだ」という迷信もいまだにありますが、さっきいったようにマネーによって、人と人がつながるというポイントが大事。そういった気持ちのいい宗教的響きがあるからこそ、マネーはご近所づきあいに代わって、世界メジャーに居座ったわけです。

かつてメジャーだった地縁・血縁に、マネーは打ち勝ったんですよ。マネーという宗教が体系化されたのは、サン・シモンにおいて。新キリスト教ですね。

いまから1000年昔のイスラム世界でも、マネーは満開しました。というかイスラムなかりせばプラトンはきっと歴史のかなたで忘却されていたでしょう。マネーが神のかわりになった可能性さえ疑わしい。

私たちはイスラムの歴史を軽視していますが、現代をつくったのはイスラムです。この話には次章でふれますが、ざらに1000年近くはイスラム各国が世界帝国で、ヨーロッパはその辺境だったわけです。世界覇者に見えるモンゴルでさえ、気づいた時にはイスラム化していました。古代ギリシアの発見もイスラムの功績です。

マネーの研究もイスラムの功績です。ただマネー、いったんはイスラム世界で華咲かせたものの、やっぱり最後には嫌われました。現代の私たちが「お金じゃないでしょ!」という感覚にどんどん近づいていった。最後には民衆が哲学書を焼きつくすという事態にまで発展しました。

すさまじい怒り。イスラム世界が荒廃した原因は哲学にあった。これが11世紀から12世紀にかけての状況です。ちなみに「10世紀から13世紀にかけてがユダヤ人にとって最高の世紀だった」といわれています。それはこうしてイスラム世界で死ぬほど金儲けできたからですね。理論武装に哲学をつかって。その成れの果てが民衆の反乱でした。

ただイスラム民衆は哲学書を焼きつくしましたが、ユダヤ教はその後も粛々と爪を研ぎながら生き残り、現代から見るとおよそ500年前の1500年代にキリスト教と合流しました。キリスト教圏が力をつけはじめた時期です。キリスト教とユダヤ教が合流した頃からを「近代 a modern」といいます。1700年代のカントの頃には、もうキリスト教とユダヤ教は分かちがたく結びついている。つまりキリスト教に「すべてのモノゴトを数、量に換算するユダヤ思想が混入しているので、それを体系化してまとめよう」とするのがカントの意図です。

カントはよく「ア・プリオリa priori」という単語を使います。ア・プリオリとは、人間が経験によらずに、生まれ持った認識の性質のことです。たとえば、あなたが誰かのことを嫌いだとして、それは生まれたときから嫌いなんですか?

ちがいますよね。その人となにかこじれて嫌なことがあって、だからあなたはその人を嫌いだと認識しているわけです。それ、経験によって嫌いになってますよね?

だから、それじゃ経験によらない認識はどこにあるのか。
カントは、経験によらない認識として「空間」と「時間」を見いだします。たしかに私たちは生まれながらに、空間と時間のなかをけっして越えることができずに生きている。手を伸ばせばコーヒーカップに手が届く(空間)。1日外を歩けば体は汚れる(時間)。

なぜかといえば、それがそもそも人間という種の土台なんですね。もしかするとどこかの宇宙人ならば、空間と時間とはちがう土台でもって、世界を認識しているのかもしれない。手を伸ばせば、体が汚れるのかもしれない。でも人間は手を伸ばしてコーヒーカップをつかむ。これが、地球に生存する人間という種の土台だから。

人間は、空間と時間の中に閉じこめられて、これら2つを認識の土台とする以上のことはできない。ここが人間の認識のはじまりなんですよ。どうあがいても。だからカントは「空間」と「時間」を、生まれ持ったア・プリオリな人間機能として設定しました。ここで数学の話が出てきます。なにを隠そう、数学とは「空間と時間」をあつかう技術なんです。

『反哲学入門』p184(木田元著 新潮文庫 2007年)
カントの考えでは、幾何学と数論は、直観の形式である空間と時間についての理性的(先天的アプリオリ)認識の体系にほかなりません。また、ニュートンによって形成された理論物理学(純粋自然科学)は、直観の形式と思考の枠組との組み合わせによって生じてくる現象界の形式的構造についての理性的(先天的)認識の体系なのです。
したがって幾何学・数論・理論物理学は、理性的概念だけを使って得られる理性的認識であるにもかかわらず、われわれの認識する現象界に当てはまり、普遍性と客観的妥当性をそなえた確実な認識の体系として成り立ちうるわけです。
しかし、同じように経験に依存しない理性的認識だからといって、神学や形而上学の認識はそうした確実性はもちえません。というより、右の幾何学・数論・理論物理学以外に、普遍性と客観的妥当性をそなえた認識の体系はありえないということになります。

だから、これがカントの神殺しといわれるゆえんでね。Godがつくった世界ではなく、人間の数学能力が大事。空間と時間を認識する能力が、この世界を私たちが見ているように見せている。本当はちがうように見える可能性があるが、でもここが人間のフィールドだから、人間という種の見えかただから、だから人間を研究するのだということです。

本当はちがうように見える可能性についてもカントは言及していて、「空間と時間」を媒体にしない状態のモノを「物自体」と呼びました。物自体を人間なりに把握したら、「空間と時間」というフィルターにかけられた姿になったということ。

そのなかでどこからどこまでが、人間は純粋にpureに、経験によらない認識ができるのか。どこから経験が侵入してくるのか?そのことをハッキリさせようよ、というのが『純粋理性批判Critique of Pure Reason』なんですね。
なので『純粋理性批判Critique of Pure Reason』を訳すと「人間が生まれながらに持っている数学の能力を整理整頓しよう」となります。そしてカントは整理整頓したんです。

だから空間と時間を認識する能力=数学能力=ユダヤ思想のリーズン=量換算=マネー。これをキリスト教のなかに完全にとりこんだ、融合させたその金字塔として、『純粋理性批判Critique of Pure Reason』は受け入れられたんですね。結果、老いたGodのかわりにリーズンが玉座に着座しました。

キリスト教徒は、カントの出現に諸手をあげて喜びました。カントの本質は神学者なんです。これはニーチェがしつこく書いてますね。「カントのクソ野郎、奴は神学者だ!」と。

神学者イマヌエル・カントは、現代の信仰である社会、マネーという思想の大黒柱なんですよ。社会なんていっさい知らなかった日本人も、カントのつくりあげた大風呂敷のなかで、社会に疲れ果ててのたうちまわってるんです。これが『純粋理性批判Critique of Pure Reason』の本当の意味です。

と、話はここで終わりません。ところがですよ。『哲学の起源』(柄谷行人著 岩波書店 2012年)は、カントは誤解された思想家だという。カントはイデアを否定しようとしていたと。つまりまったく真逆の、反哲学の立場だったんだと。上掲書のp155で、そのことをカントが語ったといって「M・ヘルツ宛書簡」なるものが紹介されています。もしそれが本当であるなら、カントは世紀の大誤解をうけた悲劇の思想家です。まったくトンデモナイ、真逆の評価を歴史からうけていることになる。

とはいえ。たとえカント本人の真意がどうであれ、私はやはり時代にどう受けとられたかのほうが重要だと思います。じっさいのところ『純粋理性批判』でカントはプラトンのイデアを肯定する発言、少なくとも私には肯定しているとしか受けとれない発言もあります。光文社の翻訳でいえば、第4巻のp53、段落406以降です。だから、カントはGodの生まれ変わりとしてリーズンを設定した、という従来の立場で私はカントを見ることにします。

リーズンはルネ・デカルト(1596-1650)に発見され、イマヌエル・カントによって世界メジャーになりました。それは社会や恋愛というイデアになって、私たち現代人を日々、再生産しています。ですからリーズンはやっぱり、中世のGodとなにも変わらない世界秩序の道具なんです。それが現実だ。カントの真意はどうであれ。


第5回終わり

次回「イスラムが成し遂げた世界史の誕生~イスラムからヨーロッパは生まれた~」

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社会に壊された人々へ


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