もう一度みんなと同じ場所で泣き笑いたい
公私認める大変なズボラ大臣である私が、息長く続けている趣味の一つである「走ること」。
25年以上の私のラン歴史にはそれなりに紆余曲折があり、右往左往したりジタバタしたりした結果、今は心穏やかに走っています。
その一番の転機となった時の話です。
結果から言うと、あの局面がなければ日常的なランニングの習慣はありませんでした。それまでは、筋トレやストレッチも暮らしの中ではしていませんでした。
そんなトレーニングの習慣がなければ各地の大会に出るたびに表彰台にのぼり、著名人よろしく見知らぬランナーから握手を求められたり、真の著名選手と交流させてもらえたりすることもなかったでしょう。
大好きな山を走らなければいけなかった苦痛
その局面の直前数ヶ月。国家規模のとある山岳競技の選手団候補として、監督とひたすら山を走っていました。10kg少々の荷物を背負いながらひたすら続く登り坂を全力で。累積標高差約800mある山を50分ほどで登っていたわけで今は到底そんな真似はできないのですが、そんなことを毎週繰り返していました。
今ではトレイルランニングがすっかり定着してしまいましたがそんな言葉がまだ普及していなかった頃です。山登りを趣味としそのために最低限の体力維持をやっていた私は、せっかくの山…いやひたすら階段の続く面白みのない坂を駆け上がってすぐに下りてしまうことにものすごくストレスを感じ、走る度に嫌悪を感じ。
走ることが本当に嫌で嫌で仕方なくて、走っている人を見るだけでイラっとして、走らなければいけない位なら電車に乗り遅れる方がまし。走ることは親の仇とばかりに負の感情が止まらなくなって、涙が出る程に走ることが大嫌いでした。
こんな競技に出られる機会なんてきっと二度とない。みんなも応援してくれているし自慢できる。そんな名誉欲にこの時期は支えられていたように思います。
歩けなくなった日
あまりに嫌悪を募らせたせいか、運命は私にその山岳競技を走らせませんでした。正しくは走れないどころか歩けなくなり、ベッド生活になりました。自分自身の落ち度で。
しばらく山岳競技の練習ばかりしていたこともあり、競技予選が終わったところで気分転換のため久々に登山に行ったのです。
まだ梅雨明けず早朝から雨降る中、長い長い林道を登りようやく稜線に出たのが15時頃。日暮れまでまだ少し時間があるからと、予定していた幕営地をパスして先を進んでいました。
といってもこの稜線は岩稜続きなので、テントが張れるようなスペースはたまにあるかもしれないといった程度です。暗くなる前に適地を見つけないといけません。詳細は省きますが、そこで本来歩くべきトレース(踏み跡)を探せず、稜線上につけられていた冬季用の細く脆いトレースに迷い込み滑落。真下に広がる街を見下ろしながら「もう二度とあそこ(街)には行けないかもしれない…」とここで死んでしまうかもしれないと真剣に考えもしました。
多くの方に助けて頂いたおかげで、辿り着けないと思っていた下界(街)に降り病院に運ばれ、帰ることなどと考えもしていなかった地元に戻ってくることができました。今の私の登山活動はこの時のことも含めた恩返しをしたくてやっているようなものですが、その話はまた別の機会に。
左膝前十字靱帯断裂及び半月板損傷。ギプスで左足ごと固定され、松葉杖を渡されました。
「走り」がくれたかけがえのないもの
健康だけが取り柄だった私には入院はおろかギプスも松葉杖も車椅子も、全てが初めての経験でした。
天高く肥ゆる秋。雲一つない澄み切った空を病室の窓から眺めながら「今頃この山に行ってあの山にも行ってたんだろうな…」と思いを馳せることしかできなかった季節。
ギプス生活にも慣れある程度膝まわりの筋力がしっかりしてきた頃、大きな決断をしなければいけなくなりした。
「このまま筋力を維持し膝を大切にすれば日常生活には問題ない。ただし二度と競技レベルでは走れないし登山もできない」というのが主治医の診断。
私と同じ年代の娘さんを持つその医師は、医師ではなく個人の思いとして「私なら身体に傷を付けなくても普通に暮らせる道があるなら手術をさせたくない」と言っており、親にも同じように手術を考え直してほしいと言われました。
その時に一番に頭をよぎったのは、登山ではなく、あの大嫌いになった競技のための走りでもなく。
当時入会していた山岳会の有志で、当時はまだ黎明期だった地元のトレイルランニングレースに申し込み走り終えてからの入浴後宴会の年の瀬のお祭り企画。年始は年始で地元の駅伝大会に出場し、普段は個人で走るただの山岳会員が襷を繋いで走り…。
そのトレイルランニングレースの開催は12月。きっとその日が来たら昔を思い出してただ泣いて悲しむしかできないんだろう…あと3ヶ月。
そう思った瞬間にもう私の中では「手術をして今年の12月にトレイルを走って完走し、年始に駅伝に出てみんなと酒を飲む!」と決まってしまい、それ以外は全く考えることすらしませんでした。
このトレイルランニングレースと駅伝の一番面白いところは、大会の内容やコースなどではありません。この大会に出る有志メンバー誰一人としてランナーでなければランニングクラブ所属でもなく、ちょっと走りに来てみたと言わんばかりに所属を山岳会名で毎年堂々と名乗っている点(それでありながら数名は入賞し景品を持ち帰っていたのも)を、私は何より気に入っていました。
個人レベルでの記録向上はそれぞれに目指していたけれど一番の目的はそこではなく、繰り返しになりますがそもそもランナーでもなく、ただ一緒に同じことをやってその話で旨い酒が飲めるのが本当に幸せだった。
エンジンかける前に容器内のガソリンが炎上しました
そのビジョンが固まってしまうともうベッドの上だろうが車椅子の上だろうが、あと何日と指折り数えながらどんなトレーニングをしたらいいかと考え実行する毎日。
本当にあっと言う間でしたが、ベッドの上での筋トレと20段ほどの外階段を20往復するのを日課とし隙あらばベッドを抜け出してトレーニングに勤しんでいる、超健康な怪我人というかなり怪しい人物になっていました。
手術後、自分の身体ではないんじゃないかと思うレベルで思うように全く動かなかった膝にはものすごくショックを受けました。やっぱり手術しない方がよかったんじゃないか…動かそうと思って力を込めても全く言うことを聞いてくれない状態に、リハビリやトレーニングで治らないんじゃないかとも思いました。
寝たきり→車椅子→松葉杖と進化していくわけですが、自分の足で歩けるようになる松葉杖への進化は感無量でした。
歩けるということは自分の意思で好きなところに行けるということですから。登山や走りを嗜んできた私にとっては、やっと「自分」に戻れた瞬間だったんだと思います。なお、そんな自由を得たことで私の入院生活改め脳筋生活のQOLは格段に上がり、普段の暮らしよりもはるかに充実した日々を過ごしていたように思います。
当時手厚く介抱して頂いた病院職員の皆様。
検温に行ったら腹筋していたり雨の日なのにいないと思ったら階段をウロウロしているような患者なので、なんだか気持ち悪いから近寄りたくなくて無視して…。じゃなかった、変な暮らしを見て見ぬふりしつつ見守って頂いて本当にありがとうございます。
これでいいとラインを引くな
膝周りの筋力維持は、膝の故障を抱えるようになったあの日からこの先もずっと、私が永遠に取り組まなければいけない課題です。
ストイックな3ヶ月入院生活が終わり無事完走を果たした私は、少し自分の身体で実験をしてみたくなったのです。
故障して手術をした結果、以前と比べて思うように膝が動いてくれないのは確かなこと。パフォーマンスは間違いなく低下している。みんなと同じ場所で戦うためには、前と同じように同レベルのランナーと勝負するには。
人が10努力してるなら20の努力くらいじゃ駄目だ。10努力してたら自分は50努力する。変人と呼ばれないと努力不足だ。それまでは雪の日も残業で深夜になっても走る。
今までまともに大会のための練習ランなんてやったことがなかったのでどうなっていくのか全く検討もつかなくて、自分の可能性に賭ける面白さを一番味わえた時期だったと思います。
冒頭に書いたように一時はもてはやされるような時期もありましたが、周囲が順位だのタイムだの言う割には、私自身は純粋に大会を楽しんで走っていました。
今は当時のような記録は出せなくなりましたが、走りに限らずまたひょんなきっかけで変なことをやり出すような気がしています。
個人的には、大きな挑戦をする時やなんとしても叶えたい夢を掴みに行く時には、エンジンかける程度の熱意じゃ全然足りないと思っています。相手との競争が発生する挑戦なら余計に。
いつもそんなことをしていたらすぐに疲れ切ってしまうけれど、これだけはやってやる!と自分に決めさせて点火・加速させられるだけの情熱は、その時がきたらいつでも出せるように心の中に温存しておきたいなと思います。
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