山岳遭難
気象庁などが頑張って各種予報を出しているのにさすがに続きすぎだ。
我慢していたけれどちょっと黙っていられなくなったので書きます。
以下の記事をyahooニュースで読み、そこにつけられたコメントもざっと読んでみての個人的な意見です。
富士山の大学生遭難
八ヶ岳でのアイスクライマーの遭難
氷ノ山にキャンプに行ったグループの遭難
(遭難者及び捜索隊の無事を祈ります)
1.どこからが「山」なのか
街では存在しない危険があるところは「山」です。簡単にいえば山地形にあるところは「山」のリスクが存在すると思っています。
大阪の天保山なんかは「山」とついていても特有の危険はないので山のリスクを考える必要はないと思います。
逆にスキー場や六甲山上などは、普通に人工物があり信号つきの交差点までありますが、どう考えても山ですよね…。
人工物が多いことや登山者・山小屋が多いことは、遭難に大きく関わりますが、山自体に存在するリスクを減らすものではないです。
富士山がどれだけ人工物や人で溢れても、標高2500m地点であれば当然に気圧と気温低下、酸素の薄さ、雲の発生と天候急変はつきものです。
2.危険であったかどうかの判断
登山者の力量によるところが大きいと思っています。
言い方を変えれば、遭難事故が起こり一般的なニュースだけを見て「○○だから判断がまずかった」と考えることに少し疑問を持っています。
寒波が到来し街にもうっすら雪が積もりました。雪が初めてなら「スノースパイクつけていつもよりも歩道寄りを慎重に歩いて」と声をかけると思いますが、何十年も豪雪地帯で過ごしてきた人なら起こりうるリスクを知っていて、万一起こってしまった時の対処も心得ているでしょう。
そもそも、雪に慣れているから転ぶリスクは想定する必要すらないかもしれません。
天気予報を見ていなかったのか。
天気予報を見て危険だと言っていたけどスルーしたのか。
天気予報を見たけど意味がわからなかったのか。
どれなのかはわかりません。
悪天です寒波到来と言われたら危ないと理解するのが当たり前…ではありません。
多くの人はそう理解するというだけの話で、天気予報を見たのか。見てどう理解したのかを聞かないと、こちらからは何も判断できないなーと思っています、
「巷で流れているニュースで悪天と言っていたのに」という考えはかなり危ないと思っていますし、そもそも後出しジャンケンのような理屈だとも思います。
ニュースで好天と言っていたら入山するのでしょうか?それで遭難してもニュースのせいではありません。
天候以外のリスクも同じことですが
「自分で判断する」
これがものすごく大事です。
特にグループ登山ばかり楽しまれている方は声を大にして言いたいところです。
単独行でも「てんきとくらす」の予報を鵜呑みにして判断したつもりではいけませんよ、と自戒しておきます。
そのようなサイトがありながらなお、気象に関する本があるのは「自分で判断できるように勉強しておかないとダメですよ」ということだと思います。
3.二次遭難の危険
一番避けなければいけないこととして知られています。あえて危険を冒して行くのですから。
氷ノ山の件ではきっと「なぜ1人だけ残したんだ」という声が出るのでしょう。残された者の気持ちがわかる方なんだと思いますが、その気持ちを一番痛切に感じているのは、置いていくしかない立場の者だと思います。
強い感情に支配されているときは、冷静な判断をすることがとても難しくなります。置いていくしかない者が、感情を優先して残る1名も助ける方がいいのかどうか、私には判断できません。
自分たちが助かりたくて置いてきた可能性もあります。しかし助けるという選択肢は、助かる見込みのあった登山者たちにとって非常にリスクのある行動であることは疑う余地がないと思います。
置いてきたという事実だけで十分だと思います。その理由は聞かないとわかりません。二次遭難という視点で見れば、正しいと思います。
4.冬季に入山すべきでないという意見
積雪期も残雪期も好きな人間として反対の立場で書いてみるわけですが…。
中立の立場なら、入山禁止の立場に立つ方が説得させやすいお題だなーといつも思っています。
そりゃどう考えても夏山と比べてリスクが段違いに高いですから。命に代わるものはありません。
この話でよく目にするのは「なぜ寒い辛いしんどい怖いのにそんなことをしたがるのかわからない」という声です。
それに対する私の個人的な回答は以下のとおり。
寒い→天候によります。特に風速(気圧配置)。
辛い→辛いと思うときは雪山に行きません。
しんどい→しんどくて気持ちが折れたら帰ります。夏山に汗だくで登るのもしんどいですが、やりたくないことをやっている時が一番しんどいです。行きたいのにしんどいなら、トレーニング不足です。
怖い→怖いと思っていたら行ってはいけません。
救助における税金の話で「登山というただの趣味のために〜」という意見をよく目にします。ただの趣味です。行きたいから対策をして行きます、というだけのことです。
その対策が夏山よりも装備が必要で、体力も必要で
濡れや疲労などへの対処も必要で、雪山装備を使いこなすだけのスキルも必要で…とかなりハードルが高い。そのためどこかがおそろかになりがちです。
夏山の場合はおそろかにしてしまってもリカバリーがきくことが多いのですが、雪山は天候が厳しいということだけで夏山では何なくできることが全然できなくなります。少しのうっかりをした時にリカバリーすることがとても難しいので、そのまま事故に直結します。
私も常々肝に銘じたいところですが、冬季に入山する場合はリスク対策を万全に行うことが大前提です。
それでも事故は起こる時には起こります。人間なので判断を間違えることもあります。その部分については自分で省みる点はあると思いますが、他者から非難される要素はないように思います。
冬季登山のリスク対策を怠ったと客観的に判断できる場合は、非難されて当然だと思います。
5.そもそも山岳遭難に他者の助けや税金を出すべきではないという意見
他者に言われる筋合いはー…なんて書くと必ず言われるのが「自分の大切な税金が遭難救助に投入されている」ということです。
私のまわりだけかもしれませんが、登山者がこのように言うケースはあまり見ないように思います。まあ、自分が遭難者になる可能性もありますし。
ただ、今まで多くの登山者を見てきて「遭難者になるかもしれないから」というような消極的な理由ではないように感じています。
積極的な理由は「命はかけがえのないものだから、金がどうとかどんな人だとかいう問題ではなく助ける」ということに尽きます。
登山者で税金投入するな論をあまり聞かないということは、税金投入するな論は登山をあまりしない・したことがない人に多いのかもしれません。
まずお話したいのが、税金はあなたのものでも私のものでもないということです。
昨今コロナ禍なので非常にお財布が寂しく生活も苦しくなり、心理的な不安や不満の行き所として、金の使い道に非難が集まるニュースをよく目にするようになりました。
かくいう私も、健康に悪いとわかっていながら3食とも菓子パンや麺類など炭水化物に頼るようになりましたがまあそれなりになんとかやっています。
無駄な金があるならよこせと思う気持ちもわかります。とっても短気で勿体無いことをしているなーと思いますが、少し損をしたなどと理由で店員さんを罵り蹴り罵倒しとやりたい放題の方もいらっしゃるようですね。
あなたに金が有り余っていたら、人ひとり助ける税金の金額なんかどうでもいいと思うのではないでしょうか。なんなら売名できると思いその遭難救助費用わ、肩代わりするとまでいう人までいるかもしれないと思っています。
税金の無駄使いと言うのなら、もっと効果的にメスを入れられる無駄使いがないか探し、それを削ってから考えた方がよいと思います。
「削れるところから削る」のは、「とりやすい(弱い立場の者)ところから税金を取る」という考えと全く同じだとも思います。なにより、山岳遭難救助の税金について国民的な議論をすることが一番先でしょう。
「登山という趣味で好き勝手やったことに対し税金を〜」ということについて。
実は登山で一番危ないのは雪山ではありません。沢登りの方が危ないですし、むしろ一番危ないのはリスクを想定することが少ない著名な山域での晴天の夏山登山でしょう。リスクを認識していないことが一番危険です。
私に言わせると、雪山登山よりも街中の河川でバーベキューや水遊びをしているグループの方が怖くて仕方ありません。
街中の河川は勿論山中ではありませんが、危ないものとして認識されている登山よりもよっぽど危険が高いと思います。
バーベキューや水遊びも趣味ですから、救急車の要請をするな…という変なことになってしまいます。
仮に遭難救助に税金を投入しないこととします。コロナ禍で貧困極まる中、自分の心身の健康のために登山をして遭難した人の中には、救助者の感染リスクを考え救助を躊躇う人も出ることでしょう。そんなこと関係なく救助要請する人もいるも思います。
金銭のことで救助を躊躇わせることにより、救えるはずだった命が救えなくなるなんてことはあってはいけません。多い少ないの問題ではなく1人でもそんな人を生んでしまうのなら、それは悲劇でしかないと思います。
特に、それを生業としている山岳救助に携わる方々のことにとっては、助けられたはずの命が金なんていう問題で不可能になってしまうことにはやり切れない思いがあると思います。金を持っているかどうかで命のトリアージが行われることになります。
それは、この現代日本では街中でもあってはならないこととされているのではないのでしょうか。
無事ならそれで十分です
というのがいろんな山岳遭難救助の報道の感想です。色々考えるべきことや課題はあるのでしょうが、それは第三者が言うことではないと思っています。
遭難しようとして遭難するという人を、私は今まで聞いたことがありません。
故意ではないならまずは遭難者やまわりの当事者の無事を喜び、事故のショックから元気を取り戻してもらえたらいいなーと思います。
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