知らない幸せ。
最近、よく思うことがある。
それは、知らない幸せもあるという事。
私にとっては知ることが喜びであり、生きるエネルギーでもあった。
好奇心が旺盛で、地元の人よりもローカルお店なんかを知っていたり、
自分でもすごい情報量だなと思うこともある。
でもどこかで、損得勘定をしているため知りたい欲が強いのかも知れない。
知らないより、知っている方が特だ。すごい。とか
知っていることで人より優位に立てるのではないか?という稚拙な考えもあったかも知れない。
あぁ、もしかしてそんな理由で色々と知りたいと思っていたのか・・・・(ショック)
その気持ちはゼロじゃないけれど、圧倒的に強い気持ちは、こっちだ。
私は、自分が何者なのかずっと知りたかった。
これが根底にあるのだと思う。
もぅ本当は知っているけど、知っていると言わないでいるような気もしているのだけれど、知らないから知りたい。知ってても、もっと知りたい。と色々とやってきたのだと思う。
分子栄養学もその一つ。もぅ目には見えない細胞の中の分子レベルで自分を知ろうとしてしまっていることにハッと気づいてしまった。(自分からやり始めたのでこの表現はおかしいのかも知れないけれど)
でも、2ヶ月で気づいた。これは究極的に自分と向き合っているのだと。他の誰のことでもない。自分のことなのだ。まだ2ヶ月だけれどやればやるほどそれを強く思う。
ヨガの学びから体は車だ。乗り物だと教わった。本物の車はタイヤもエンジンも交換ができる。ガソリンも空になったら入れればいい。ぶつけても修理ができる。フロントガラスが割れても保証が効いてタダで直してもらったこともある。こうやって交換修理が簡単にできる。
でも、体はそうは行かない。お腹が痛いからっていちいち切って開けることはそうそうないし、肝臓が疲れているからって直接お腹に手を入れてマッサージできない。腎臓も汚れたからって丸洗いできない。足を取り替えることもまずできない。目が痒いからって取り外して洗うこともできない。。。。
だから、体のメンテナンスは非常に重要だと感じていた。でも私は、本当の私の状態を知らない。きっと物心が着くまでは絶好調だったかも知れない。もしかしたらその時から何かしらの不調を患っていたのかも知れない。全くをもってどの状態がベストだったのか知らない。。。。。とりあえず生きているし。でも肩こりや歯の食いしばりを注意されたことがあったがその時は気にも留めなかった。これが私のデフォルトだと思っていたから。。。。。。
だから、私は自分の『普通』を疑った。
だからこそ、私は知りたいんだ。
と、思っていたのですが、いや今もそう思っているのですが、私の心のどこかで知らない幸せもあるんだよな。と思いもあります。
気づかない幸せ。
ほら、鈍感力という本がベストセラーになった時代もあったじゃない。
何も知らない・今の自分が最高だと思えていたのなら、それが側から見てどんな状態であろうと、知らない幸せ。気づかない幸せがそこにある。
肩こりがあっても、頭痛が時々してても、寝れば治る。一時、薬を飲んだらそれでひとまず解決。
そんな解決策もあるし、根本的に解決しようとしてもいい。
だから知っているからエライ・知らないからエラくないという考えは、根本的にナンセンスで、何が正しくて、何が間違っているということはないんだということに気づかされた。言ってみればどれも正解。私が知っている知識を押し付けることもやっぱり違うし、ひけらかすなんて以ての外だし、必要な時に必要な人に届けばいいのだろうな。と。そう、見守ることも愛だと最近思う。
そして、もう一つ、自分の体験を通じて気づいたことがある。
それは、知ることはほんのちょっとだけれど勇気がいるっていうこと。治療に向き合うことも、自分の検査値を見ることも、ダメな自分を受け入れようとすることも、全部勇気がいる。認めたくないという抵抗がどうしても入るから。でも、人間なんてそんなもんよね。笑
勇気を出してくれた人に私は真摯に向き合おうと思う。だって、私も勇気を持って向き合っているから。
実は、知らない幸せ という気づきを認めるのもちょっとした勇気だった。だって、そっちの方が楽じゃん!なんかズルイってね笑(ほらここにこの感情!笑)
でも、私は知る方を選択したよ。
もぅこれに理由はない。性です。
そして知らない幸せがあるって勇気を持って受け止めたよ。
なんかさ、勇気って愛なんだよな〜