常にスケジュールぎっちりな人が、何もしない一日を過ごしてみることの効能
とっても久しぶりのマガジン投稿になってしまった。
3月は残りわずかなニュージーランドの景色を一滴残さず全身で感じるのに無我夢中で、帰国後の4月は職場復帰とともに「院内コーチ」という新たな役割へのチャレンジに試行錯誤していたら瞬く間に時間が過ぎてしまっていた。
ニュージーランドで過ごした3ヶ月で感じたあれこれは、またゆっくりまとめようと思う。
今日はGW最終日。
長い人では10連休だったようだ。
私は昨年あたりから始めている「おうち入院」という名の終日カレンダーブロックを1日だけ入れていた。
そうでもしないと、仕事だったり誰かしらとの約束だったり、どうにも気づいたら予定が埋まってしまうからだ。
その日は前日まで目の回るようなスケジュールの日々だったせいか、薄々気づいていたものの、目を覚ますととても疲れていた。
時計に目をやることもなく起き上がり、朝からのんびり湯船に浸かり、肌の感触を感じながら最低限のケアをして。ベッドに戻って読みたかった本を読んでは途中で閉じ、ヨガニードラという横になったままできる瞑想をして、そのまま再度眠りにつく。数度目の朝を迎えたら、キッチンに向かってただ無心できのこやサツマイモなど大好きな具材だけを淡々と切ってお味噌汁を作り、またベッドに横になり・・・
と、本当にとにかく省エネ且つ、自分をとことん労ることだけをする時間を過ごした。
これを一日やることで、翌日劇的に疲れが回復している
なんてことはもちろんない。
私も長年ヘルスケア事業に携わり、今や医療機関に勤めている身なので、「太陽の光を浴びて適度な運動をし、気のおけない人と楽しくコミュニケーションを取り、良質な食事を取って、適切な時間に睡眠を取ること」が休む上では大事なこともよくわかっている。
それらは健康な状態を保つために日常的に取り入れる休息の大前提として、ふと「疲れたな」と心で感じたときは "とにかくただ休む" をしてみてほしい。
これを私は「おうち入院」と呼んでいるが、その一番の効能は「何もしていない、ただヒトとして生命を繋いでいるだけの時間を許容すること」だと思っている。
昔から休むのが苦手だった。
夏休みに祖母の家に帰省する際には大量の勉強道具を持参し、時間を見つけると問題集を開いていた。
親戚たちからの「お勉強ができていい子ね」が、今思うと「そうでない自分は認めてもらえないのでは」という呪縛になっていた気がするし、父ができてはいなくなるのが日常だった私にとってそれは「この目の前の大人たちもいつか何かの拍子に居なくなってしまうかもしれない」に無意識に繋がっていたようにも思う。
そして何より、いつも忙しそうな母から悲しげに抱きしめられるのではなく、笑顔で頭を撫でてもらうにはこれが一番手っ取り早かったのだ。
社会人になってからも、業種と担当案件の都合上、常に休日もどこへ行くにも業務用端末を肌身離さず持ち歩き、有事の際に迅速に対応できる状態にしていないといけなかった。担当案件で何かあれば影響範囲が計り知れないので、常に細心の注意を払い続ける必要もあった。
会社から義務付けられていたわけではないけれど、暗黙の了解とノミの心臓とが相まって、自らそれを課していた。
10年近く過ごし、コロナ禍で数億の予算規模とリーダーとしてのプレッシャーとに朝から晩まで向き合っていた、とある朝、出社までの道で突如ボロボロと涙が止まらなくなったことがあった。
我ながらこれはマズイと受診をすると、優しそうな男性医師から「初期のうつ状態です」と言われたりした。
幸いその後環境も変えて次第に回復したが、人はいつ壊れてもおかしくないのだということを身をもって知った。そして、自分の人生に責任を取れるのは自分しかいない以上、人に何か言われようとも「ちょっとしんどいな」と感じたときには休むことを自ら許可してもいいのではと思うようになった。
資本主義の世界では、常に最短最速で成果を出して評価され続けることが求められるけれど、そんな誰かが誰かの利益のために作った枠組みの以前に、皆一人の人間だ。
見た目や性格が違うのだから、ストレスに対するキャパシティも人それぞれ。
そして、身内の不幸や望まない異動などの悪い変化だけでなく、昇進や結婚・念願の移住などの自分にとって良い変化であっても、とてもストレスがかかるのだそう。
成長・変容し続けることは人が輝く原動力となるし、私自身もそれを支援する立場にあるけれど、そのためには、まずありのままの自分を受容できていることが大前提となる。それを飛ばして成長へと突き進むと、いつか必ずガタがくる。
そんなことをここ数年咀嚼しながら、「何もしていない、ただ生命を繋いでいるだけの自分」にも、恐れを抱かなくなっていった。
むしろ自分の内側の声に耳を傾けて、自分自身を大切にできるようになったとも言えるかもしれない。
自分が勝手に作り上げた恐怖に支配されることほど、不要なことはない。
あなたが克服できた恐怖は何ですか?