歌舞伎とコーヒーとトースト
上方落語家の桂ざこばさんがお亡くなりになりました。
関西では、以前は夕方のローカル番組レギュラーで
毎週拝見していた方だったので、突然の訃報に呆然としました。
いつか寄席(特に繁昌亭)に行って落語を聞いてみたいと思っていた
落語家さんのおひとりだったので
「もう落語を聞くことはかなわないのか・・・」
と寂しさに包まれた夜でした。
身に着けた芸すべてが消える
当たり前のことですが、人が亡くなるということは
その人の才能やスキルなども、全て消えてしまうということ。
私がそのことを強く意識したのは
十八代目 中村勘三郎さんがお亡くなりになった時でした。
学生時代、歌舞伎を専攻していたので
いつか京都南座で歌舞伎を観ることが夢でした。
特に「絶対観たい!」と思っていたのが勘三郎さん
大看板を背負いながら、さまざまなチャレンジを続ける姿は
とても魅力的で、尊敬していました。
お亡くなりになってから、少し経った頃に
同じ歌舞伎役者の方が語られていた(と記憶している)
「役者は、身体を失ったら全てを失う。身に着けた芸事全てを」
という言葉を聞いた時に
「人の死」というものの意味を初めて知った気がしました。
そうか、私はもう勘三郎さんの舞台を生で観るという夢が
永遠にかなわなくなってしまったんだ。
頭ではわかっていたのに、初めて心で実感して
どうしようもない喪失感を感じたことは、いまだに忘れられません。
著名な方は、映像記録で残されている作品を
観ることはできますが、やはりライブにはかなわない・・・
私が、あの頃から「ライブは一期一会」という思いが強くなり
行きたいと思うライブや舞台にはできるだけ足を運ぶことを
実践し続けているのは、心の底にまだ
あの時の“喪失感”が生き続けているから、だと思います。
祖母の朝ごはん
芸能人や有名人ではなくても、同じような思いを抱くことがありますよね。
私の場合は祖母。
大好きだった祖母、小さい頃から可愛がってくれて
「あんたは自慢の孫」といつも褒めてくれた。
体調を崩して入院し、そのまま亡くなってしまった時
世の中はコロナ禍の真っ只中。
お見舞いに行くことも、見送ることもできなかったので
実は、いまだに実感がわきません。
子どもの頃から、祖母宅に泊まった時に食べるご飯が好きでした。
特に思い出すのは朝ごはん。
厚切りトーストにコーヒー、というシンプルなものでしたが
お気に入りのパン屋で買った食パンに
こだわりのコーヒー豆を挽いて淹れてくれたコーヒー
いつも同じ青い花模様のカップに注いでくれて
バターをたっぷり塗った厚切りトーストと共に
「しっかり食べんさいよ」と
笑顔で出してくれた、その光景が
コーヒーの香り、焼きたてトーストの香りとともに
いまもはっきりと甦ります。
広いリビングがあるのに、なぜかみんな
狭いキッチンにぎゅっと集合して
祖母を中心におしゃべりの輪が広がる
ちょっと口の悪い広島弁で、いつまでもしゃべり続ける祖母
あの姿も声も、すぐに思い出せるけど
あのコーヒーとトーストはもう食べることができない・・・
存在がなくなることの意味って
存在がなくなることの意味って
しばらく経ってから
何気ないことでふっと感じてしまうのかも。
きっかけは何気なくふっと、だけど
なかなか強烈に感じてしまうから
その後の寂しさもなかなか強烈です・・・