“analographic”のわけ
機械オンチのデザイナー
機械が大の苦手だ。意志の疎通が図れなくて、一方的にへそを曲げられることも多々ある。だからと言って、パソコンにそっぽ向けることはできない。手作業でも仕事はできるかもしれないけれど、それにはおそろしく時間を要する。現代の商業デザイナーには悲しいかなパソコンが必須なのだ。
だから、わたしにとってAppleとAdobeはあくまで手段である。それらを使わないと成り立たないぎりぎりのところまでは、極力手を使う。そんなわけで、わたしは「アナログラフィックデザイナー(analographic designer)」と名乗るようになった。元々、グラフィックデザイナーは完全にアナログだったはずなのに、不思議な話だ。
「アナログ」はデザイナーになるそのずっと前から、自分の中にあったように思う。
アナログ的思考を愛す
人生が一筋縄に順調であれば、アナログに心酔することもなかったかもしれない。おそろしく長い人生の中に、小さくとも生きがいを見出し自らの機嫌を取る、我ながら健気な努力の中に、アナログはあった。
中学時代、直帰しては見ていた一昔前の再放送ドラマの中に、時代遅れのアナログを見た。再放送に飽きると、ビデオ屋で借りてきたドラマを見漁った。ブラウン管に映る、携帯電話のない風景は新鮮で、人々はスマホの中ではなく、目に入るものに夢中だった時代だ。
ドラマの中には、連絡手段がないばかりに、雨の中ずぶ濡れになりながらすれ違う人々や、偶然の巡り合わせに小さな喜びを感じる人々がいた。突然のできごとに冷や汗をかく焦燥や、予定調和では進まないもどかしさ、今のわたしたちにはこれらが失われたように思う。
こんな風に例えれば少しはドラマチックかもしれないが、アナログといえば、不便で面倒くさい、遅い、非効率、なんていう言葉で揶揄されることが少なくない。しかし、アナログ的思考には、意味や生産性がなくとも、ロマンがあり、夢がある。
いつもと違う道を行けば、かわいい喫茶店が見つかり、遠回りをすれば、普段は見ない猫に会える。
古本屋で本を買えば、中には過去の持ち主への手紙が挟まっていたりして、映画館に行けば、そこにあるチラシでまた新しい映画に出会ったりする。
出先でばったり知り合いに会えば、そのまま居酒屋に流れ込み、会話に花が咲くかもしれない。
世の中にはさまざまな物語が転がっていて、それを自分のものにできるのは自分だけだ。受動的な人間に、偶然は味方をしてくれない。
そうは言っても、外に出るってことは出不精のわたしにとって至難の業だ。家から一歩も出る気がしなくて、Uber Eatsを頼む日だってもちろんある。それにはすこしの罪悪感がつきまとって、なぜだかわたしは悪いことをしているみたいに、玄関前に置いてもらったご飯を誰にもみられないよう、すばやく自分の元に引き寄せる。
面倒さゆえに妥協してしまうのは、オンラインで済ませてしまう打ち合わせでも同じだ。相手の実像を目にしていれば、表情や仕草が直に伝わることで他愛ない雑談につながり、あと一歩その人に寄り添えたかもしれないなんて思う。画面に映るのは、あくまでも虚像にすぎないと感じる。バーチャルでは決して伝わらない機微が、リアルにはある。
思いもかけないことが、生活に高揚をもたらし、退屈な毎日はそれでほんの少しだけ彩られる。そんな小さなことで日々をやり過ごせるのならば、ちょっと時間をかけて寄り道をして、ぼんやりくだらないことを考えながら帰路に着きたい。
そんなわけで、analographicがはじまります。