見出し画像

「親鸞、聞け」東本願寺にて独り泣く

 平日にも関わらず、不真面目だから仕事がなかった。朝起きてカーテンを引っ張ると、とても天気が良かった。寝惚け眼に陽光が差し込む。温かくて気持ちいい。人生の先の見えない不安など吹き飛んでしまう。目覚まし時計を掛けずに寝る、それこそわたしが求めている最上の幸福である。

 10月25日から11月6日まで京都大丸で、版画家、川瀬巴水の展示会をやっているので行くことにした。
《神戸っ子》かつ《もやしっ子》のわたしは西は元町三宮、東は梅田まで、この範囲を出ることはほぼ無い。なので京都に行くことはわたしにとって大旅行なのだ。

 阪急烏丸からすぐの所に京都大丸はある。オシャレ空間を抜けた6階大丸ミュージアムにて展覧会はやっていた。正直ワンフロアのしょぼい展覧会だろうと舐め腐っていたが、意外にも作品展示数は多く、普通に見ても1時間はかかる展示量だったと思う。平日にも関わらず来場者も大勢おり、かなり賑わっていた。来場者層は99%老人だ。わたしが行く場所はいつも死の匂いがする。
 川瀬巴水は街並みや風景画を描く版画家で、なんでも鑑定団で知った。彼の絵は初めて見るはずなのに、どこかで一度見た事があるような景色だと感じる美しい絵だ。例えるなら、久石譲 summerの様な絵だ。日本人なら誰しも郷愁を刺激されてしまう。
 その中でも画面が暗い夜や明け方の作品が特に好感をもった。光源は月、もしくは家屋から漏れ出る明かり、微妙で絶妙な不完全な闇。わたしが暗い人間だからだろうか、心にストンと落ちてくる。
 ここまでしっくりくる理由を考えた時に思い出すのは谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」だった。本で説明があるように、暗がりの中に美を見出す日本人の精神そのものだと感じる。わたしの血の中にもそれは脈々と引き継がれてきたのだろう。とにかく素晴らしかった。

 図録とポストカードを4枚買って、その後は適当にそばを啜り腹を満たした。

 少し東に進んだ所にある丸善京都本店にて福田恆存の「私の幸福論」を買った。
 福田恆存は難しいイメージがあるが、この本は女性向けの雑誌で連載していたため難しい言葉が出ないらしい。学のないわたし向けだ。丸善カフェにも寄りたかったが時間がなく断念した。

 北上。三条にある老舗のホウキ屋に行く。脅威の1818年創業でホウキ以外にも、タワシ、ブラシ、マットなども売っている。当初は靴磨き用の豚毛ブラシを買おうと思って行ったのだが、ホウキが有名ということもあり、小さいシュロホウキを買った。また会計の際たまたま目に入ったタワシストラップも一目惚れだった。これがじっくり観察すればするほど妙に可愛い。タワシなのに可愛い。見てくれ。全国のギャルにおすすめだ。

 そこから七条に移動し、三十三間堂に行く。1001体の観音様を見た。いつ来ても良いものだ。それにしても今日は天気がいい。

 三十三間堂から真っ直ぐ西へ。JR京都駅方面に向かう。目的地は浄土真宗東本願寺だ。わたしに仏教の知識はない。ただ五木寛之先生の「親鸞」と山口晃の「親鸞 全挿絵集」を読んでいるので、親鸞という人間には、なんとなく親近感を持っている。

 今の仏教は厳しい修行をしないと仏になれないのか!修行のできない庶民は救われないのか!と比叡山を降りた法然上人。法然上人は念仏を唱えることに重きをおいた、それが浄土宗。
 法然上人のたくさんいる弟子の中でも特に優秀だった親鸞。親鸞の弟子が広めたのが浄土真宗だ。
 親鸞は教える「南無阿弥陀仏」さえ唱えたら救われる。阿弥陀如来は私達を救いたくて、救いたくて仕方ないのだよ、だから絶対に救ってくれる、と。
 簡単に言うと、すげぇ優しい阿弥陀如来に南無する。南無っていうのは帰依するってことだから、阿弥陀如来にわたしは帰依しますってこと。それが南無阿弥陀仏だ。

 ざっくりした認識だが、わたしの中ではこんなイメージだ。「親鸞」を読んだのは別に最近じゃないし、そもそも結構エンタメ寄りの物語だったので全てが曖昧だ。ただ「親鸞」を読んで親鸞そのものに惹かれたことは自分の中ではっきりしている。

 靴を脱いで堂内へ入る。誰でも自由に入れる。こういうオープンなところも浄土真宗ならではなのかもしれない。非常に広い空間に畳が敷かれており、前方には親鸞聖人がいる。静かにそこに居る。ここの素晴らしい雰囲気をわたしの言葉で説明するにはあまりにも能力が足りない。とにかく圧巻だ。
 参拝客は各自、好きな場所に座り、自分のペースでお参りをしている。わたしも適当に腰を下ろす。畳に座るのは何年ぶりだろう。ひんやりとした触感が心地よい。
さて、心で唱える「南無阿弥陀仏」。

 南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、親鸞さん、こんにちは。早速ですがわたしも救われるんでしょうか。こんなに屑で明らかに劣等な人間でも阿弥陀如来は救ってくれるんですかね。今日も働いていません。世の中のお荷物です。なのに借金だってあります。話すことはいつも否定的だしみんなに嫌われます。だから友達も居ません。心の底から愛した女性にも優しくできませんでした。彼女の期待を何度も裏切ったのです。じゃあ、もはや、誰に優しく出来るんでしょう?たぶん誰にも優しく出来ない人間なんじゃないかなって思います。考えれば考えるほどいつもそう思います。本当はもっと皆に優しく接したいのですが、前からよたよた歩いて来て、急にぶつかりそうになるババアなんかには心の底から憤りを感じます。わたしはきちんと真っすぐ歩いているだけなんですよ親鸞さん。さっきもコンビニで100円程度の小銭を出すのにモタモタして、更にポイントカードの有無を聞かれてから「えーそれってどんなカード?」って定員さんに説明させてるジジイを見ると後ろから蹴り飛ばしたくなりました。京阪電車に乗っていた、素敵な太ももと尻を持つ女性を見ていると脳内で卑猥なこと、恐ろしいことを考えてしまいます。うるせー餓鬼は家から出さずに折檻してほしいです。わたしがほんとうの意味で素直に生きたら、なりふり構わず人を殺す、無敵の人になると思います。まぁけど十悪五逆の悪党でも救われるって言いましたよね。わたしは実際、万引きすらもできそうにないので救われますか?いや悪や善の総量ではなくて、本当に信じているか、が重要ですよね。そういった意味でわたしは宗教自体をそこまで信じていません。今だってそうです。周りを見回すと、みんな神妙な面持ちでお参りしています。姿勢を正して丁寧にお辞儀しています。すがるように手を合わせています。わたしなんて「おい、救ってくれるんだよな」って態度です。親鸞さんに会いに来て、何だこいつって感じですよね。だけどそうやって信じたところで現実は変わらないですよね。当たり前ですけど。その日が来るまで耐えしのげばいいですか。わたしは傲慢だからあの世に行ってからの幸せでは慰められないのです。ワーニャ伯父さんにはなれそうにない。キリストも貴方も、貴方が信じる仏もそこまで盲信できません。信じてないから救われませんか?たぶん、真剣に信じることが出来たら現世でも多少は楽になるんだろうな、とも思います。けれどそれはわたしにとっては逃避に似たなにかです。苦しみを分散させるひとつの共同体として宗教も利用したらいいんでしょうか。わたしは苦しみ、悲しみにできる限り向き合いたいのです。その苦しみから何かを得たいのです。そうしないと今までしてきたことが、それこそただの悪です、不幸です。糞の掃き溜めから、煌びやかな結晶を見つけ出し、そして掬い上げたいのです。それはたぶん隠されています。そのために時には勇気を出して汚物に飛び込んでいく気概も必要です。わかっています。それは信仰がないと気が狂うかもしれません。ニーチェは無神論者だから気が狂ったのでしょう。だけど信仰、それを宗教以外で見つけたいのです。こんなこと言って、ごめんなさい。超人なんて誰にもなれないのかもしれませんね。死の間際になったら、その時はようやく貴方にすがるかもしれません。都合が良すぎるでしょうか。ずっと畏れを探して、自分で否定し続けている。もう少しだけ、宗教以外の何かを探したいのです。何しに来たんだよって思いますか。わたしもよくわかりません。ただ何気ない日常が確実に、完璧に、苦しいのは間違いないです。だから足を運んだのかもしれません。


 無性に言葉が湧き上がってきた。止まらない。親鸞聖人の荘厳な佇まいがそうさせたのか、ただ歩き疲れて心が弱ったか。
 不意に何故か「南無阿弥陀仏」よりも罵詈雑言を唱えるわたしの言葉を親鸞聖人は聞いてくれている気がした。黙って辛抱強く聞いてくれている気がした。
 それでも良いよ、また話を聞くよ、何でも聞くからいつでもおいでって言ってくれているような気がした。わたしは自然と涙が溢れてきた。

 涙が頬を伝うと同時に宗教の本質が少しわかった気がした。

 別に明日から頑張らないし、真面目に生きることもない。生き辛さも変わらないだろう。
 だけど気が向いたらまたここに来ようと思う。そういう場所が出来た。それだけで良いじゃないか。涙を拭いて立ち上がる。どこかで鐘の音が聞こえた気がした。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?