「自分のサイズと持ち物のチェック」は自然治癒力だと思う
退職後、子供を出産してからこの数年、働くこと、働き方についてゆるく試行錯誤している。
わたしは20代から30代の若かりし時期を、学生や研究員、教員として、大学という特殊な世界で過ごしてきた(といっても院生・研究員時代がほとんど)。とりわけ優秀な学生でもなく、研究や大学教員への強い興味や憧れがあるわけでもなかった。
そもそも、人生の目標になるような興味や憧れもない骨抜き状態だったので、周囲の支援と理解に甘えて、状況に流されるまま選択した進路は大学院進学だった。
加えて、好奇心と執念深さと頑固さと生真面目な資質が幸い(災い)して、博士課程までたどり着き、最終的には、いつの間にか人生のゴールとなっていた学位取得に到達した。
とはいえ、めでたくも博士の学位(=取っても食えない足の裏の米粒)はとれたが、就職のあてはない。奨学金という名の借金が残り、次の展望をもたないままタイトルだけ与えられた状況に、高学歴コンプレックスも加わって、ますます自分を見失っていった。
無計画に費やしてしまったお金や時間というエネルギーを回収するべく、経歴や知識を活かせる仕事を…と、執着全開モードで人生の視野も選択肢も狭まった。
在学中から限られた人間関係のなかで、すっかり環境や状況にがんじがらめになっていたので、「こうしたい」というより「こうでなくては」「これしかない」という呪縛によって、大学や研究のフィールドにしがみつき、薄給の研究員時代を長らく続けた。
そうやって器だけが一人歩きして、こころの伴わないちぐはぐな状況に、深くはまり込んでいった。
呪縛の力はあいかわらずで、もんもんとしながら大学や研究での活路を模索していた。いい加減、この状況に見切りをつけようと、ある時期から大学と距離をおきはじめた。と思ったら、その数ヶ月後に思いも寄らず、とある大学で欠員がでるので推薦したい、という話しが舞い込んだ。
30代半ばで奇跡的に任期付教員として採用されたが、評価に値する実務経験もほとんどなく、とりたてて優秀な人材でもなかったので、人事で多少の無理があったことはそれとなく聞かされていた。
なので、自己都合で退職を決めたときは、とてつもない罪悪感との戦いだった。結果的に、退職までの一連のプロセスは、しがらみからの自立と、自分の意志(悲鳴)を最優先した自己肯定のプロセスでもあったと思う。
博士の学位を取得してからとくに、視野の狭さとか、熱意のなさとか、展望のなさとか、未熟で適性に欠ける自分を、いつもどこかで恥じていた。
けれども、節目での大きな決断や選択はどれもその時点での自分ができうる「最善」だと思い込んできたので、結果に後悔はなかった。
とはいえ、「最善」=「これしか選べなかった」だけで、いつもどこかに「いじけた諦め」があったのだなと、今にして思う。
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要は、呪縛にがんじがらめになって自分を見失っていたし、自分を見下していた。定期的にうつのような情緒不安定な状態があったし、診察を受けるほど深刻な状況ではなかったけれども、ごりごりに凝り固まった観念は、病魔のように思考をむしばんでいた。
離職してから出産するまでの数年は、過去の自分を客観的に見直してなんとか正当化して受け容れようと必死だった。ごりごりの固定観念もずいぶんやわらいだように思う。自分にもやさしくなった。
そして、出産してからは「いじけた諦め」に希望をあたえようとゆるゆると邁進する一方で、ポテンシャルを最大限に引き出して、大きくエネルギーを循環させて生きてゆきたい、という衝動にもかられている。
その一心で、邁進が暴走したり迷走したりすることもあった。今もきっとその延長にあるのだと思うのだけど、いろいろなアプローチをたよりに自分のポテンシャルを探っていくなかで、サクちゃん(桜林直子さん)の記事に出会った。
どれも、すとんと腹落ちするメッセージに目から鱗で、なかでも「自分のサイズと持ち物のチェック」は、その時々の等身大の自分を測ることができる、神ツールだと思った(サクちゃん、ありがとーございます)。
自分なりに咀嚼するうちに、「自分のサイズと持ち物のチェック」のすごさにじわじわと感動していた。
なぜなら、現状の自分が納得する「落としどころを見いだす」ので、無理やストレスなく、理想に近い状態を自分の力で構築できること。
同時に、「自分の資質とスキルと要望を把握する」→「落としどころを模索する」→「可能性を見いだす」→「実行する」→「理想に近い状態を創り出す」という一連のプロセスが、気づきと自己肯定と自己実現のプロセスであり、これを繰り返すことで大きな癒やしの力がはたらくと感じたから(この手の話しは、自己啓発とかビジネスセミナーでは今更なのかもしれないけれど、サクちゃんの実体験をふまえたストーリーに説得力と共感を覚えたよ)。
この、最小限の動力で、可能性という未知数のエネルギーの循環を生み出すことができる、自分にも社会にもやさしくて恩恵をもたらすエコなツールは、適材適所のごとく、まさに自分を生かす(活かす)ことであり、自己治癒力にもなり得ると思った。
「自分のサイズと持ち物のチェック」は、つきつめればつきつめるほどに、続ければ続けるほどに、こころとからだのゆがみや滞りを正常化する自己治癒力として、大きなポテンシャルを秘めていると思う。
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どんな目的でどこを目指すのか。どんなルートを辿って、どんな手段を使って、どんな助けを借りるのか。「自分のサイズと持ち物のチェック」は、手にしている地図をつぶさに把握して、目的地までの行程を熟考する作業にも似ている。
わたしの人生はどちらかというと、行き当たりばったりの旅だった。だからトラブルもたくさんあったし、途方に暮れたことも度々だった。喉もと過ぎればそれはそれで笑い話にはなるけれど、今なら、他人の本音を探るよりも、自分の本音を探って戦略練ってルートを決めてエネルギーを心地よく効率よく使おうよー、と若かりし自分にあれこれ言いたくなる。
でも、仕方ないよね、今に比べたら、はるかに経験も浅かったし、自分のサイズも持ち物もぜんぜん把握できていなかったし、それが自分の最大の武器になるなんて知らなかった。あの頃は、目に付く限られた持ち物を駆使してベストを尽くそうと、右往左往しながらよくわからない道を必死に進んできた。
今、こうして書き出してみたら、そんな自分を褒めてあげたい諦めにも似た気持ちになった。
旅のルートを定めるために、まずは、ぽろぽろとこぼれ落ちたまま放置していた「いじけた諦め」を拾い上げて、どうしたいのか自分に聞いている。
この記事だって、封印したくてずーっと無視してきた想いを、やっとのことでかたちにしたものだ(というか成仏に近い。実際、書き上げるのに1ヶ月くらいかかったし、わたしなりのカミングアウトに勇気出したよ)。これも前に進むための大切な一歩だと思っている。
今は、仕事を介して、いかにポテンシャルを引き出せるか、それを使っていかにエネルギーを循環できるか実験してみたいと思っている。この壮大で漠然とした人生のテーマを、いかにスムーズにダイナミックに辿ってゆけるかは、「自分のサイズと持ち物のチェック」の精度にかかっていると思う。
とはいえ、はやくも自分の資質を把握するところで苦戦中(汗)。自分を客観視するという作業は、自分に対する偏見もあるので案外むずかしい。
わたしの自分のサイズと持ち物チェックはまだ時間がかかりそうだけれど、こつこつと自分のスペックを把握して、いくつかの譲れない条件を道標に、エコなルートを模索してゆきたいと思う。
ちなみに、転勤族の夫とちいさな息子との暮らしも優先したいわたしにとって、時間と場所の制約を受けずに継続できる仕事は、方針を決める大切な指標のひとつになっている。
まるで息子の相手をするように、ちいさな自分のご機嫌をとり、要望を聞き入れて、褒めてあげられるところをつぶさに観察して…と地道で丁寧な対応も必要になりそう。自分を俯瞰しつつ自分の本音にどれだけ寄り添えるかが、ミソだよなと思っている。