温度と距離に引き裂かれる ー野澤梓個展「ふれてほとぼり」ー

                             伏見 瞬

 MEDEL GALLERY SHUで行われていた野澤梓の個展、「ふれてほとぼり」を観たのは3月の最初の日だった。今この文章を書いているのは3月9日だから、まだ一週間ほどしか経っていないのだけれど、大分昔のことのように感じる。当日の他の出来事にはまだ現実感があるのに、展示の記憶はまるで遠い夢のようなのだ。その遠近感の乱れは、おそらく野澤さんの作品がもつ性質に起因している。
 
 この展示が「ふれてほとぼり」と題された理由を、野澤さんは触れられるような暖かさを作品から感じられるからと話していた。それが少し意外に思えた。作品の前に立っている間、むしろ「ふれられなさ」を、より強く想起していたからだ。
 たしかに、野澤梓の絵には暖かさがある。うすむらさき、ピンク、ミントグリーン、水色。パステルカラーが散らばった画面のなかで、幼い女の子のキャラクターが無邪気さを漂わせている。ふわふわ、とか、楽しい日常、とか、そんな言葉もふと浮かぶ。ただし、女児たちの形態は色彩と線が飛び交う画面のなかに曖昧に溶け込んでおり、白く浮き上がった途切れがちの輪郭線がなければ、彼女たちの姿を認識すらできないだろう。キャラクター絵と抽象画の中間をいく形式が、野澤梓作品の特徴のひとつである。そして、キャラクターの曖昧さと輪郭線の浮き上がりが、「ふれられなさ」の印象を抱かせる要因となっている。
 

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 細かく観てみよう。縦長に書かれた絵がある。左上に、小さな卵型のかたまりがみえる。かたまりの中は濃淡のレイヤーがかったオリーブグリーンで塗られたおり、白を青で縁取った細長い輪郭線が卵を覆っている。輪郭線の欠けたところはクリーム色の線で補強され、オリーブグリーンのなかには白の孤島が浮かぶ。輪郭線をたどっていくと上に髪の毛、右下にピースマークをかたどった手が描かれているとわかり、位置関係を意識すれば、オリーブグリーンの卵は女児キャラクターの目だと認識できる。下方部には、虹色のレイヤーの線で、そろった前髪と眉毛、顎の輪郭らしきものがが形作られている。眉の下には青の中に白の散らばった円形がぼんやり浮かんでおり、こちらも目を表象しているとわかる。右下に頭頂部が来るななめの位置で、別の女児キャラクターが配置されている。キャラクター二人の位置は一部重なっているが、どこからどこまでの線が一方のキャラクターに属しているのかは不明瞭だ。ピースマークをしている手の右側、青で縁取り、虹のレイヤーで色づけられた細い線は、位置から推測するにもう一人の斜めに寝たキャラクターの長い横髪なのだが、縦に引かれた数本の線が途中でつながっていたり、逆に線が途切れたりすることで、髪の毛の描写からは乖離した抽象性を獲得している。例をあげればキリがないが、野澤梓はこのような線の操作によってキャラクター絵と抽象絵画の中間を綱渡りしている。
 
 女児キャラクターは元々野澤さんの手で一人一人独立して描かれており、その画像データを再配置し、そこからさらに手仕事で完成形を描いていくという行程で作品は成り立っている。野澤さん曰く、今の作風は子供の頃のシール遊びから着想を得ているという。シールをひとつの平面に、ランダムにぺたぺたと貼っていく感覚で作品を作っていると。複数の女の子のキャラクターが斜めになっていたりする乱雑な配置は、たしかにシール遊びを想起させる。
 子供の遊びをモチーフにしているとしても、野澤さんは子供ではない。子供時代と現在の時間との間には隔たりがある。その隔たりが、野澤さんの絵における形態の曖昧さに表れている。本来はそれぞれ明確な特徴をもつキャラクターたちが、線と色の重なりの中に淡く融けあっており、輪郭だけになった女の子は、まるで通り過ぎた記憶のようだ。スピッツの曲に「追い求めた影も形も消え去り今はただ 君の耳と鼻の形が愛しい」という詞があったのを思い出す。無邪気さの気配が、記憶の中で少しずつ遠ざかっていく。淡い痛みが、輪郭線を見つめるうちに広がっていく。

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 加えて、どの作品も線が重層的に立体感を持って塗られており、過去との距離をより強く意識させる。特に立体性を強調しているのが、箱のなかに透明な板がいくつも入った作品群だ。少女の顔のパーツ、髪型、服、シルエットなどがシートに分解された後に重ねられているこれらの作品には、キャラクターの衣装をシールでデコレーションしていく着替え遊びの意匠が、モロに反映されている。そして、黄色いパーカーを着て微笑む立体的な女の子の絵と鑑賞者の間には、明らかな隔たりがある。子供の遊びに感じさせる作品ほど、「ふれられなさ」が、強くなっていく。野澤梓の絵画は、過去と現在に強く引き裂かれているのだ。
 
 「ほとぼり」は余熱を意味する言葉だから、暖かさと共に、熱源がすでに冷めていることも想起させる。「ふれてほとぼり」というタイトルが表しているのは、触れられたはずの存在に、触れられなくなっていくことの予感と痛みだ。淡い色彩の群がりは、やわらかい頬や小さな手に触れたときの肌の暖かさを想像させる。けれども、描かれているものの形は融けだしてしまっており、線の重なりは遠ざかる過去を観る者に直感さえる。直に触れる温度と遠い距離。矛盾した二つの印象が、ひとつの作品に自然に両立している。そこに、野澤梓の優れた資質を観てとることができる。

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