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小説や文学が僕たちに何を残すの?

 僕が小学生の時の話だ。閉じ込められた部屋の中で祖父から聞くカフカの変身はとても恐ろしいものだった。しかし、泣き叫びながらも耳をふさがなかったのは物語の魅力には抗えなかったからである。

 しかし、小説を読んだり読まれたりすることが人生にとって何の役に立つというのだろう。
 何か知りたいものや実現したいものがあるとき、僕たちは本を手にする。
 例えばお金があっても、経営の知識がない人はビジネス書のコーナーに行ったりするだろう。そこでドラッカーとか、ある野球部のマネージャーの本を手にとるかもしれない。
 例えばコミュニケーションで困っている人がいて、「最高に人に好かれるための12の方法」なんてタイトルを見かけたら、思わず手に取りたくなるだろう。逆にそんなメンタルの時は「人に嫌われる12の法則」なんて本も目に留まりやすくなるだろう。

 しかし、どの書店にも共通してあるコーナーがある。どの書店にもだ。しかもそのコーナーは最も目に留まる場所や、大部分を占めることも多い。
 言わずもがな、小説コーナーである。その中でも昔からある文学者の本というのはいつの時代にも置いてある。言わば、人間に例えるなら不老不死と言ったところだろう。おそらく、何百年先も残り続ける本だ。なぜなのか?なぜ人生のどこに役立つとも限らない本が束になっておかれているのか?
 しかも必ず出てくるのは書店だけにとどまらない。中学や高校の現代文の課題や、テストにも出てくるのだ。その中で語られるストーリーは、決して簡単とは言い難い。受験生からすれば、「文学なんてどうでもいいから、国語の点数を上げる方法を教えてくれ」というのが本音のところだろう。

 本音のところ、"読んで何になるのだ"。その通り。書いてあるのは、誰かもわからない第三者の複雑怪奇な思考回路であったり、昼ドラ並みのどろどろとした粘度100%の人間関係だ。
 しかし、大事なのはこの「誰かもわからない」という所だと思う。

 小説を求める人は、僕はある種、答えを求めていない人なのだと思っている。むしろ読んでいて混乱させられることの方が多い。特に文学作品には混乱と混沌が自由自在に渦巻いている。じゃあ本当に小説が僕たちに与えてくれるものはないのだろうか。

 少なくとも本を読んでいる間だけは、誰かもわからない登場人物に思考を巡らせている。つまりそれは、他人の気持ちや行動に思考のベクトルを向けているのだ。たとえ主人公の一人称視点であっても、だ。登場人物は平気で読者の予想を裏切るのだ(そういうキャラこそ読んでいて心地がいい)。

 だから小説は面白い。僕らがわかっているつもりであることを平気で裏切るのだ。世界に対する僕たちの期待や願いを理解も、誤解も台無しにしてくれるのだ。文学とはそういうものだと思う。文字通り小説が僕たちに与えてくれるものは、混乱だと思う。「わからない」を増やしてくれるのだ。
 
 たくさんの小説を読まずとも、一冊の本がたくさんの「わからない」を与えてくれることもある。小説を読むというのは相互作用の結晶なのだ。こっちも想像しないといけない。与えてくれるだけではない。考えなくてはいけないのだ。だからそういう本に出会って、読み終えたときには、他の人のことなど信用できなくなるのかもしれない(笑)
 だって現実で関係する僕らの身の回りのすべての人は、誰かもわからないのだから。

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