ハイリスクノーリスタートな国、日本。 吉川ばんび著「年収100万円で生きる」
少し前から活動を追っていた吉川ばんびさんが本を出版されたということで、いそいそと買って読んでみた。大げさでもなんでもなくこの本に出会えてよかったと思う。読んで「ためになるなぁ」と思う本はたくさんあった。だけれど、この本は若者支援をしていた自分にとって具合が悪くなってしまうほどの現実を見せてくれた。以下に本を読んで感じたことをまとめたい。
本のあらすじや内容はここから
1.つながりきれなかった誰か
本を読めば読むほど、この本に出てくる人たちが自分が若者支援や福祉の仕事のなかで、関わりや繋がりが途中で切れてしまったり、フェードアウトしてしまった人たちとイメージや印象が重なる。それに加えて、学生の頃に遊んでいたけどちょっと心配だったあいつやそいつ、などなど出てくる人それぞれがなんだか身近な人物に感じ、個人的には本の中に出てくる証言16のケースは一番関わってきた若者とのイメージが近く読んでいて苦しくなった。
どのような形態にしても「支援」と言葉がつく業界では何となく相手とのつながりがなくなり、その後を追えなくなる場合がある。すべてが当てはまるわけではないが、エピソードを読むたび、自分がつながりきれなかった誰かのことを思い出さずにはいられなかった。
2.本当にしんどいときこそ助けを求め(られ)ない
さんざん、この部分に関しては著者の吉川さんをはじめ、多くの専門家、実践者が言及している内容ではあるが、改めて自分も考えを残したい。
貧困に関する問題や事件が報道されるたび「なぜ助けを求めなかったのか」「なぜ支援につながれなかったのか」という意見が毎回出ている印象を受ける。ただ、支援をかじったことがある立場から言わせてもらうと、本当にしんどい人たちこそ、支援につながる余裕がないことが多い。(専門家の多くは「サバルタン」という言葉を使って説明していることが多い。自分は専門家ではないため、興味がある方は調べてみてほしい。)
そもそも自分に必要な支援(者)と出会うためには何が必要なのか。
最低限でも
・自分の困っている状況だと理解できること
・どんな支援があるかを調べられること
・見ず知らずの他者に自分の弱み、困りを伝えられること
・自分の状況や困りを言語化できること
・相談に行ける時間や(必要であれば)交通費があること
など簡単に思いつくだけでもこれくらいは容易に出てくる。状況によってはすべて揃っていなくても相談ができる。その場合、相談する側のストレスやハードルが高く、支援者側の技能が必要である場合が多い。
小さいころから適切な関わりを周囲からされなかった場合、その人にとっての「普通」はどんなものなのか。
「今の時代はパソコンでもスマホでもなんでも調べられる」と思う人もいるが、そもそもパソコンやスマホがない人はどうすればいいのだろうか。またその人たちのなかで「公共施設ならパソコンを借りられるかもしれない」と思いつく人が何人いるだろうか。
他者に虐げられたことのある人が見ず知らずの他者に「自分はこんなことで困っている。助けてほしい」ということはどれだけエネルギーを使うことなのか。また、話せたとしても理解されず冷たい対応をされたときに「今度は別の人に相談しよう」と思えるんだろうか。
長々と書いてしまったが、「援助希求力」という言葉があるくらい、人に自分の弱いところを話し誰かに助けを求めることは能力であるとも言える。余裕がなければないほどハードルが高くなる。そんなときに追い詰められた人たちがどうするか
「それなら自分が我慢したほうがマシ」と沈黙するのである。
3.やり直すまでのハードルが高い国、日本
正直、「日本なんていくらでもやり直すことができる」「仕事なんていくらでもある」と主張する人の気持ちもわかる部分はある。
ただ、そのレールに乗れる人は前述した通り援助を求めることができる人か自分の能力・個性で自分の生きるフィールドを切り拓ける人でないとそこまで辿り着けない可能性が高いように思う。
自分の前の記事(https://note.com/an_ch/n/n8a91af456a67)にも書いたが日本は一度レールから外れた人に対しては優しくないことが多い。
教育資本や経済的資本、文化的資本といったものが乏しい人は元々の選択肢が少ない中で日々戦っている。ぎりぎり踏みとどまっていたところから1歩踏み外した場合、それは持っている全てが手からこぼれ落ちてしまうようなものだと思う。
今の日本はぎりぎりで生き延びる方法はある程度あるもののそこから転げ落ちてしまった場合にもう這い上がりにくい社会になりつつある。本の前半にも書いてあった路上生活者の人の「いっそ一気にホームレスになったほうが楽」という言葉もそれを表している。
筆者も本の中で「事件や問題が起きた場合に結果しか見ず背景を考察しないようになってきている」といったニュアンスの発言をしている。
ここ最近の芸能人の不祥事の報道を見ても「芸能界から追放」「反省を求める」ことはあっても、「どう本人が更生のプロセスを踏むか」ということにはほとんど誰も触れない。
近年、国民は消耗ではなく消費されている人が多くいるように感じる。そのため楽をしている(ように見える)誰かが許せなかったり、自分は逃げられないのに誰かが今の環境から離れることに寛容ではなくなってきている。その不寛容さが自己責任論を呼び、リスタートしにくい社会が形成される。
「私だって我慢して踏みとどまっているんだから、あなたも頑張って」ではなく「私も大変になるかもしれないから、困ったときに誰かがいる世の中にしたい」と思う人が増えることを願うばかりだ。
4.個人的に感じた著者のすごいところ
この本には一般的な貧困問題を取り上げる際にはこぼれ落ちてしまうような人たちの声が書かれている。著者本人も言及していたが、ばんびさん自身も困難な状況をサバイブしながら今を生きている当事者の一人である。
自分はばんびさんの文章を読み、客観的かつその人の生活感や背景が伝わるような描写に優れていると感じた。
きっと自分なら取材の際に自分と重なる部分がある相手ト接した際に「自分」が強く出てしまい客観的な文章を書くことが難しいと思う。そして、当たり前なのかもしれないが、どんな状況にある相手でも誠実に向き合い、対話している相手の背景も含め理解していこうとする姿勢を尊敬したい。生きているその人の語りが素直に出てくるのはきっと著者の人柄がそうさせるのだろう。
5.さいごに
いつものように長々と書いてしまったが、この本は貧困問題に関わる人たちには本当に読んでほしいト思う一冊である。それぞれの証言から支援の限界を感じたケースの先にある景色を垣間見ることができる。
知人の支援者は「自分たちは下流にいる子ども、若者と関わることは出来ても最下層にまでは手が届かない」と話していた。普段から貧困や就労支援に携わる人たちはこの言葉を忘れないでほしいと思う。
今は若者支援から離れてしまっているが、改めて一人でも多くのしんどさや生きづらさを持った若者達関わっていきたいという気持ちを新たにした。
筆者の吉川ばんびさん自分と同年代でこのような著書を作られていることを本当に尊敬している。今後も活動を応援したい。