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発達障害を抱えても、承認欲求を受け入れる ~ネガティブに気づき、認める大切さ

【この記事は、約10分で読めます】

「…俺って結局、職場であれ知人であれ家族であれ、どこに行っても自分の能力が認められたいだけで生きてきた気がしたんだよなあ。」

先日、家内との会話で僕はこうカミングアウトしました。
そう、僕は承認欲求を満たすために生きていたのを悟ったのです。
もっと言うなら自分の承認欲求を満たしたいだけで、相手の幸せも要求も全て「自分の」ためだけに生きていた気がしたのです。

会話はその後も続きます。

「それを昨夜寝床で分かった時、何か自分の言語化したくてもできなかった闇が暴かれ、気持ち悪さを感じた。世間体を気にして体裁だけ取り繕う生き方は残念ながら親から遺伝してしまったようで、そこで“”人間らしく生きろ“”とか言われても、仮面を外すのが正直怖い」

僕の内情を吐露した後で家内は「よく気づいた、気づいただけでも成長だ」となだめましたが、嬉しかった反面もやもや感がぬぐい切れませんでした。
なぜなら、僕は今まで承認欲求の強さから家庭友人関係・職場で数々の愚行をやらかし、今も古傷として蘇る時があるからです。

度重なる失態が否定体験となり、障害特性に気づいてからもゼロ100思考に陥る時もあります。

しくじりまくったのはとどのつまり、根底に承認欲求の強さが影響されてしまったからと。

発達障害を抱えた方々へ。
きっと僕のように、失敗・否定体験を現在も引きずっている影響で過剰適応に陥る時もあると思います。
それでも僕は僭越ながら、30年超の人生を経て承認欲求の強さを認めることで能力の目減りや認知の歪みは減りました。
今回は、承認欲求を受け入れあなた自身の生き辛さを軽減し、ネガティブな自分も存在してOKと認めるヒントを僕の事例を交えてお伝えします。

時には生々しいエピソードを吐露して気を重くされるかもしれませんが、どうか最後までお読みいただければ幸いです。



①「承認欲求」なくして人は生けていけない

1.そもそも承認欲求とは?

承認欲求とは、米国の心理学者アブラハム・マズロー氏による「マズローの欲求5段階説」にある用語です。
その中で承認欲求は、他者から評価されたいという段階を指します。
過去次の記事でも紹介していますので、詳しくはこちらをご参照ください。

マズロー氏によると、わずかな例外こそあれ社会に生きるすべての人間は、自己肯定感(self-estee)や他者からの肯定(esteem of others)が必要と定義しています。
「自分に満足したい」「自分を認めてほしい」という気持ちの総体が、承認欲求(esteem needs)です。

更に承認欲求には①他者承認 ②自己承認という、2つのレベルが存在します。

①他者承認
他者からの尊敬や評価を得るもので、低いレベルに位置します。
他者からの尊敬や評価を得たり、多くの人から注目を浴びたり、富や名声、権利を持ったりすると欲求が満たされます。
例えば同僚から、「あいつは仕事ができるやつだ」と思われたくて頑張る状況が他者承認です。
ただし求めすぎると、自分を見失ったりトラブルを引き起こしたりしやすくなります。

②自己承認
自己肯定感やスキルの向上・能力の獲得などで、高いレベルに位置します。
「もっとうまくできるはずなのにどうしてできないのだろう」「より自分を好きになりたい」などを考えるときを、自己承認を求めている状況というのです。
そこでさらに技術を磨いたり、能力や自己肯定感を高めたりすると、自己承認を満たせます。

例えば、TOEICで900点取ったのにネイティブとのスピーディな英会話についていけず困っているとします。
そこでオンライン英会話を毎日30分継続したり、旅先で見ず知らずの外国人との雑談によって会話力を身に着けるといった具体的実践です。


2.本来誰にでもある欲求のひとつ

社会生活の中で他人から認められたい、自分を理解してもらいたいという承認欲求は、子供から大人まで誰でも持ち合わせています。
なぜなら、自分を他人から理解されることで自分が社会で認められたという成功体験が得られ、自信へとつながっていくからです。

例えば幼い子どもや小学生が「見て!」と、大人に何度もアピールしたい場面があるとします。
その行動には、親や先生など大人たちに「すごいね」と褒めてもらいたい、自分を高く評価してもらいたいという気持ちが根底にあります。

【参考記事】


さて勘の鋭い方ならお気づきになったかもしれませんが、感情のコントロールと承認欲求には関連性があります。
具体的に言うと、ストレスや我慢といった耐性への管理は、幼少期の頃親や周囲からどれだけ承認欲求が満たされたかにかかってきます。
むしろ幼少期に承認欲求が満たされないと、自信が得られないまま大人を迎えかねません。

なぜなら承認されなければ子供は承認されるのを諦め、ひいては承認を求めなくなってしまうからです。
代表的な例では、ネグレクトや虐待が挙げられます。

また「条件付き承認」というものもあります。
これは親などの養育者が子供のありのままを無条件で受け入れるのではなく、『○○ができたら認めてあげる』という形で育てる承認を言います。

自分を棚に上げるつもりで言及する意図はありませんが、僕は幼い頃、家庭環境の影響で未だ承認欲求の強さが現れていると考えます。
不躾な表現ではありますが、もし親子の間で愛情があったとしてもそれは「条件付き承認」と解釈しています。

「進学先が決まったから外食」
「学校で表彰されたから外食」
「一人立ちしたから外食」

外食に連れて行く理由も、親がグルメ好きだからという単純なもの。
しかもそれは自分が望んで決めた目標ではなく、安易な思いつき・親に都合がいいだけのものでした。

無条件の愛情に触れても戸惑う、本当の優しさを受け取っても理解ができない。

結果、いつもの「期限付きの愛情」と捉えてしまう。
これは現在も、家族の関係でさえ引きずる時があります。

資格試験に合格した。
休日に面倒な草むしりをした。
家族の留守中に、油にまみれた台所の換気扇を掃除した。

確かにその場では「すごい」や「ありがとう」という反応で返ってきます。
しかし心の内はむしろ「これをした(条件をクリアした)のだから相手は自分を愛すべきだ」と、見返りを求める自分も存在するのです。
少なからず子供にも影響を与えてしまっている部分も察しながら、僕は家族でさえも感情のコントロールに正直苦慮しています。

以上から承認欲求は誰しもあるもので、承認欲求自体は悪いようなものではありません。
しかし扱い方を間違えると、相手の人生を狂わせるきっかけにもなりかねないのです。

それにしても上で挙げた「条件付き承認」で思いついたものが全部外食とは、我ながら寂しいものですが(泣)


②僕が強い承認欲求に駆られた背景

1.自分の常識=世間の常識と思い込んでいる母親の影響

子供にとって、親は何よりの安全地帯です。
子供は歩けるようになってから色々と冒険をしますが、不安になったり困ったときはすぐに親のもとに戻ります。

なぜなら、肉親がダイレクトな安全地帯であり頼れる場所であるからです。

安心できる愛情関係があるからこそ、子は自立の道を進めるものです。

これは赤ちゃんや幼児のときだけでなく、親離れが進む青年期にも当てはまります。
親と子の信頼関係が、既に出来上がっているからですね。
しかし僕は30年超に及ぶ人生の中で決して安心できる家庭ではなく、いつも親の顔色を伺いながらの幼少期を送っていました。

正直、僕は今も母親と不仲です。
物心ついた時から何をしても苦言を呈され、何か褒められたとしても心からではなく、裏には皮肉やほのめかしが含まれていました。

小3の時、僕はリコーダーが思うように吹けませんでした。
1冊の練習帳に10〜1級まであり、クラスメイトが次々上の級を目指す中、僕はビリッケツでよくからかわれていました。
当時ピアノを習っていた僕にしては、どうしてピアノができてリコーダーができないんだと泣いて悔しがったものです。

ある日学校からの帰宅後、クラスメイトを見返そうとリコーダーを吹き続けました。
最初はつまづきましたが、練習していくうちにコツが掴めるものですね。
3日後には、1級の曲も吹いて自信も付きました。

そして僕は翌週担任に「1級の曲、吹きます」と宣言し課題曲を演奏しました。
結果は一発合格。
僭越ながら小3でリコーダーが必須になった中、進級して2カ月で1級をクリアしたのは当時僕しかいませんでした。

クラスメイトも「すげえ坂巻!お前見直したわ!これから師匠と呼ばせてくれ!!」と称賛されました。
半分「お前ら2週間前までさんざん俺をディスっていたのに、図に乗るな」とイラついたのは置いといて(笑)

しかし、それを母親に「僕、クラスで一番でリコーダーのテストにクリアしたよ!」と言った時の反応は…

「それはおめでとう。でもあんた、リコーダーに夢中になって昨日もおとといも晩御飯もお風呂も準備できてお母さんはあんたを呼んだというのに、返事しなかったわよね。夢中になってないで、親の言うことを聞きなさい!」と一喝。

当時は子供心で素直に母親の言葉を受け入れ、反省しました。
しかし今となっては、息子の成功は二の次。
呼んでも返事をしなかった態度に目が付き、腹を立てていたと考えます。

Aの時はB、C以外の手段は許さない。
①は良いけど②はダメ。

もしBと①以外の手段を取ったら、怒られる。
様々な可能性を考えず、自分がいつも正しいと信じ込む。

いわば自分の常識=世間の常識という「誤認識」は発達障害という特性を超え、幼少期の僕に大きな認知の歪みを形作ってしまいました。
事実、発達障害と自覚する前から成人するにつれ、周囲との交流を経て「母親の言ってることはどこかおかしい」と勘繰るようになった位です。

社会人4年目の頃でした。
今までの疑問を吐露した瞬間、母親は核心をつかれたのか「あんたに言われる筋合いはない!」と激高しました。
いくら僕が「こう言う見方もあると、知り合いの〇〇さんは言っていた」と信憑性のある理由を並べても、「他人は他人」「そんな育て方をした覚えはない」と真っ向から否定。
ついには8年前、ある出来事で僕は母親と大喧嘩し、勘当されました。

以降、付き合いで年1〜2回家族揃って両親とは会うものの、僕から母親には一切声をかけていません。
父親でさえも、母親の思い込みには辟易としています(表面上の会話は一応しているようですが)。
中学生の頃は、いたずらをして怒られた後僕に対し「警察の世話になりさえしなければ、何になったっていい」と言い放った時もありました。
今となれば、その言葉が僕に向けての子育てに集約されたと考えています。

歪曲されてしまった認知を修正するには時間を要しますし、正直今でも修正できているかは自分自身に疑念を持っています。


2.世間体を重視し、当たり障りなく接する父親の影響

今でこそわだかまりも解消されましたが、父親は家で決して人間らしさを見せませんでした。
幼少期の頃は、使ったものを元の場所とは違うところに置いたという些細なミスでも、よく僕を殴ったものです。
しかし世間体をいつも気にしてよそでは当たり障りなく接し、家族では何も問題が起きないように取り繕っていました。

父親は頭脳明晰で高校は県内偏差値No.1の学校へ進学し、大学も地域一番の国立大学に現役で入学。
就職活動では誰もが知る大企業に内定し、定年まで同じ会社で骨を埋めました。
役職もそれなりのポジションまで上がり、定年後も取引先の紹介である施設のリーダー職も勤めました。
まだ60代ですが早々に持ち家を売却し、高齢者居宅施設に入れるだけの余力もあります。

一方大企業あるあるですが、社内では派閥やしがらみも存在し、責任ある立場で相当の重圧も背負っていました。
定時に帰宅するなど年に2・3回ほどで、平日は仕事や接待に没頭していました(家族サービスが億劫だし、妻の小言を聞きたくないという逃げもあったかもしれませんが)。
その影響か、臭いものには蓋という事なかれ主義が染みついてしまったのでしょう。

僕は大学受験時、一つの学校しか合格できませんでした。
しかも滑り止めで、当時はそこしか合格できなかった自分に不甲斐なさを感じました。

しかし、父親からは「第一志望でなくても、とりあえず大学は現役に入っとけ。就職するときに現役という肩書きがあれば、浪人と差が付けられるから。」と何度も滑り止めに入学するよう念押し。
「残念だが、よく頑張った」という、労いの言葉はありませんでした。
むしろ自分の努力とかは意識の外で、仮に僕が浪人するのであれば周囲の評判を落としかねないという懸念を優先した上での言動と、今では分析しています。

今なら昔の自分に「お前の卒業した大学は立派なところだ、誇りを持て」と檄を飛ばせますが、当時は第一志望への憧れを拭い去るのは容易でありませんでした。
結局僕はその大学に入学したのですが、仲の良かった友達がMARCHクラス以上の大学に入学した中、一時は本気で仮面浪人も考えてました。

また父親が僕や家内に話すネタと言えば、僕らの仕事内容か社会問題です。
確かに持ちネタは豊富なのですが、ことさら家族の話には向こうから振ろうともしませんし、僕が振ったところで別の話題へ逸らします。

「あの時は菱生がアスレチックが怖くて泣いていたっけなあ」とか「昔は仕事に必死で、家族に向き合う時間なんてなく申し訳なかった」とか、家族らしい会話がないんですよね。

遡れば、父親と母親同士が笑い合った姿は僕が物心ついてから一度も見た記憶がありません。
喧嘩も年に3〜4回はありました。
写真では笑顔ですが、それはお互い良き夫婦と見せかけるための「演技」でした。

そういった姿から僕自身成長するにつれ「大人になると男はこうなるもんか」と、妙に刹那的な視点で父親を見ていたと思います。
事実、僕も家族ですら「人間らしさ」を現しているか分かりません。
むしろ、人間らしさによって自分の素性が他人に乗っ取られる、足元が見られるという恐怖心が芽生えるのです。

このようにある種いびつな認知を生んだ背景は、幼少期に満足な承認欲求が得られず自己肯定感も育まれなかったのが理由かもしれません。


③それでも承認欲求の強さを認め・許すには

先ほどの章で、僕が承認欲求の強さを生んだ背景をお話いたしました。
読者によっては「それほど自覚しているんだったら、どうして治そうとしない!」とお叱りの言葉を発するかもしれません。

しかし、僕は承認欲求の強さを認め・許すことにしました。

幼少期に無意識で植え付けられた価値観を、今になって矯正するには精神的エネルギーを要するからです。
さらに無意識の矯正に時間を費やすなら、他の方法でカバーした方が健全なメンタリティを維持できると考えています。

以下では過去の否定体験に脅かされず、僕が独りよがりに暴走しないために意識している3つの事例を紹介します。


1.気づいた時点で、成長と考える

まずは、自分が承認欲求が強い人間と気づいた段階で、自分を褒めます。
褒めることで、自分でありのままの自分を認めて肯定できるからです。
そこから心理的・技術的発展を進めていくようにすれば、他者からの評価に左右されずに済みます。

例えば僕は特性から、何かを伝える時に必要以上に喋るか必要な情報を言わない傾向があります。
全てを説明しようとして、または自分の興味関心に対する拘りから多弁になるか、逆に何を話したらよいのか分からず言葉が不足しがちです。
背景に否定体験の積み重ねがあり、多弁になる時はたいてい承認欲求が隠れています。
その多弁が時には失言や余計な一言となり、不利な状況に追い込まれる場合もあります。

しかし、相手を誤解させた事実を責めるだけで僕は終わりにしません。
「今のは背後に承認欲求があった、今度から言葉選びは慎重にしよう」とも言い聞かせています。

一度や二度の失敗で修正できるものではありませんが、承認欲求に自分から気づけば客観視が可能になります。

客観視が可能になれば、自己理解も深まるのです。


2.「認められた」を確認しない

次に『ほめられた』『認められた』内容を確認したり、証明したりしようとしないことです。
なぜなら確認したり証明しようと意識した瞬間、人間は満たされないという不満が募り始めるからです。
度が過ぎると、周囲にとって「面倒くさいヤツ」とあなたから離れる危険性もあります。
自分の行動に対して承認してもらった次に考えるべきなのは「もっと承認してほしい!」ではありません。
「忘れる」のです。

僭越ながら僕は、知識取得と過去問対策に十分な時間があれば資格取得に一発合格する方法を知っています(ご興味があれば、過去別ペンネームで出版した拙著を手に取ってみてください)。


正直僕は社会人駆け出しまで、資格試験に一発合格できた自分を鼻にかけてた部分がありました。
さすがに人前では自慢しませんでしたが、自分自身には資格証書や合格スコアを眺めては恍惚とした節もありました。
とんだ自惚れ者でしたね。
そういう時は大抵5分か10分無駄な時間を過ごし、人の声や文字で書かれた内容は上の空でした。
だから今では、仮に合格しても証書やスコアは目に見えない場所に閉まっています。

結果や成果に慢心しない。

重要なのは、成功体験を糧に自己研鑽を生涯続ける姿勢です。


3.自分との対話を繰り返す

最後は、承認欲求の強さを手放すために「自分との対話」を繰り返す時間を作ります。
なぜなら、自分自身への対話によって自分の承認欲求に気づき「認められたがっている自分」を認められるからです。

対話の繰り返しによって、心身の安定にもつながります。

僕は就寝する際目を閉じて、自分の心と対話する時間を作っています。
「対話」といっても、言葉を介したものだけではありません。
むしろ飲みすぎてだるいとか、昼間注意された精神的疲労から早く寝床についたなど、身体の感覚との対話を重視しています。
身体の観察によって、ある時「あぁ、このごろ自暴自棄に走ってるなあ」と気づくのです。

繰り返しての自分との対話により、他者からの承認を確認するよりもそれを求めている自分を認め、正直に振る舞おうとするようになります。
そして、自分との対話によって心の安定を得れば、人と接した中で惑わされる心もモニタリングできるようになるのです。

もう一人の自分を想像し、対話を重ねましょう。


さいごに

最後までお読みいただき、ありがとうございます。
以上、①で承認欲求が生きていく上で欠かせない理由 ②で僕が強い承認欲求が根付いた背景 そして③で承認欲求の強さを認め、許す大切さを伝えました。

僕は強弱や濃淡が人それぞれであれ、承認欲求は誰しも持ち得ており手放しはしても拭い去れないものと考えています。
なぜなら、認められたい欲求を捨てては自分の殻に閉じこもり、自分では気づかない他者からの助言を見過ごしてしまうからです。
結果、成長へのチャンスも失いかねません。
重要なのは認められたい欲求を持ちつつも、認められたらすぐに手放す、己と対話して自分を客観視する姿勢です

過去記事「努力は用を足すのと同じ」で説明したように、あなたの努力は水に流す。
今回初めて僕の過去を深い部分まで掘り下げましたが、より具体的な内容については時期を改めて言語化するとします。

この記事をきっかけに、あなたがあなた自身の欲と向き合い、自分を労るヒントとなりますように。


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