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ネコのおにぎり

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 その夏、光里にはよく分からない理由で両親は酷く忙しかった。楽しみにしていた旅行も中止になった。お母さんは何も言えずに黙り込む光里の頭を撫でて
「代わりにお盆の間は、おばあちゃんの家に行こう」
と言った。
 11歳の光里にとって、かなり遠くの、しかも峠を越えた先の山奥にあるおばあちゃんの家は想像するだけでも退屈で、それならいっそ誰も居ない家で漫画を読んだり、リンゴサイダーを飲んだりしていた方が有意義だと思った。
 けれど、申し訳なさそうにこちらを見つめるお母さんは、そうした方が安心なのだろうと感じて、頷いた。案の定、お母さんはホッとしたように「よかった。光里は良い子ね」と笑った。そして、おばあちゃんに電話を掛けるので光里の部屋をあとにした。
 光里は、座っていたベッドに仰向けに倒れ込んだ。親の顔色をうかがって、少しでもききわけの良い子のふりをするのは慣れていた。パリッとしたスーツを着ているお父さんも、髪の毛を一本にたばねて颯爽と仕事へ向かうお母さんもかっこよくて好きだった。だから、なるべく二人の負担にならないようにしようと、いつからか思うようになった。
 八月十二日、光里はお父さんの運転する車に乗って、おばあちゃんの家に向かった。行く道中は、助手席に乗るお母さんが持ってきたリンゴジュースとラムネグミを後部座席で食べた。そうしていると少しだけ旅行をしている気分になった。本当なら、三泊四日で九州に行くはずだった。けれど向かう先が退屈なおばあちゃんの家だと思うと憂鬱だった。ゲームはおばあちゃんが好きではないらしく、持って来ることはできなかった。三日前に新しく買った漫画本二冊と、やりかけの宿題だけが、薄っぺらいアイボリーのリュックの中に入っていた。
 雑木林の中にぽつんとあるおばあちゃんの家に着いたのは昼過ぎだった。おばあちゃんは砂利の上を車が通る音を聞いて家の中から出てきた。少し古さを感じるものの可愛らしい二階建ての家で、塀に初田が伸びていた。軒先で紫の透き通った風鈴が揺れている。
「いらっしゃい」
 おばあちゃんは満面の笑顔で、白髪の多い髪をお団子に結っていて、腕の中に目がまん丸の黒ブチの猫を抱えていた。
 車のドアをあけて砂利の上に降り立つと、青々と茂る草木のにおいが鼻腔に入り込んだ。夏らしい、普段近所の公園で感じる緑のにおいとはまた別のものだった。
 それは、沈んだ光里の気持ちをほんの少しだけ晴れやかにしてくれた。
「大きくなったねえ、光里」
 おばあちゃんはそう言ってにっこり笑った。光里はぼんやりとしか記憶のないおばあちゃんに少しだけ人見知りをしながらも、しっかりと挨拶をした。
「こんにちは、おばあちゃん」
 その様子を見て、お母さんもお父さんも安堵しているのがわかった。
 お昼ご飯おばあちゃんが用意してくれた野菜がゴロゴロ入ったカレーライスだった。それぞれおばあちゃんに最近の仕事の様子を話したり、今年の夏は暑くなりそうだとか世間話をしたりしていた。光里は大人の会話に入ることはせず、三人の顔を時々交互に見ながら、静かにカレーライスを食べた。大きなジャガイモがとても柔らかくて美味しかった。
食べ終わると、お父さんとお母さんはすぐに車に乗り込んだ。明日からまた仕事なのだ。
「一週間後に迎えに来るから、良い子にしているんだよ」
 とお父さんが言って、お母さんは
「じゃあお母さん、宜しくね。またね、光里」
と行って、光里の頭を撫でた。光里はできるだけ笑顔を作って、頷いた。上手く笑えたか分からなかった。行かないで、と言いたかったけれど言わなかった。言葉にしたところで、二人は困った顔をするだけなのは想像がついた。不慣れな場所に置いて行かれる寂しさと、この一週間をどう過ごそう、という戸惑いが胸を一杯にした。
大きな雲が広がる空が、青から熟した果物みたいに黄色くなって、オレンジ色になって、そのうち深い深い海の底みたいに真っ暗になった。
光里がお風呂から出ると、おばあちゃんは縁側で黒ブチの猫と夕涼みをしていた。その横に薄めたウイスキーと大きな氷の入ったグラスがあって、光里の飲む麦茶も同じ氷と一緒に薄いグラスに入れられていた。
「お湯加減大丈夫だった?」
「うん」
 光里は頷いておばあちゃんの横に腰を下ろした。ふわっと柔らかな風が吹いて、東京の夜より涼しいなあ、と思った。前に来た時も夏だったはずだけれど、従姉妹も居て騒がしかったし、今よりもっと小さかったから、こんな風におばあちゃん家の夏の夜が涼しいことなんて、知らなかった。
「麦茶、ありがとう」
「たっぷりあるからね。あら、髪がこんなに濡れて。ドライヤー出しておいたのよ」
 おばあちゃんはそう言って、光里の首に掛けられたギンガムチェックのタオルで光里の細くてほんのり茶色い濡れた髪と頬を伝う汗をポンポンと拭った。
「いいの、すぐ乾くから」
 光里は氷で冷えた麦茶をグイッと飲んだ。喉から胃の方へ流れるようにすーっと冷たくなるのを感じた。
「ねえ、その猫、前からいた?」
 光里はおばあちゃんの膝でくつろぐ黒ブチの猫に視線をやった。
「そうねえ、この子は去年の夏の終わりに来たの。ある日どこからともなくひょっこり現われてね、そのまま居着いてしまったのよ。おじいちゃんが亡くなってから一人暮らしが長かったから始めは戸惑ったけど、今じゃすっかり馴染んじゃった」
「名前は?」
「すだちよ」
「え? 何でそんな名前なの」
「私がサンマにすだちを絞っていたら、縁側にやってきたから」
 おばあちゃんは笑って、薄まったウイスキーを舐めるようにちょっとだけ飲んだ。風と共に香るアルコールの匂いが、お酒が飲めない光里にも、何だが心地よかった。
「変なの」
 光里は白地に黒ブチの猫の名前がすだちであることのアンバランスさが、ジンワリあとからおかしくなって、笑った。
「でもねえ、不思議な猫なのよ」
「すだちが?」
「そう。時々ね、喋るのよ、この子」
 おばあちゃんが声を潜めて言うので、光里もつられて声を小さくした。
「ええ? ホントに?」
「一週間も居るから、光里にも話しかけてくれるかもしれないね」
 おばあちゃんがいたずらっぽく言った。
 次の日、光里は扇風機の風を浴びながら西瓜を食べた。その間ずっと、縁側でしっぽをゆらゆらさせているすだちを睨むように真剣に見つめていた。けれどどう考えたって、すだちが喋りそうな気配はなかった。ニャァという鳴き声が、ごはん、とか、お腹すいた、と言っているように聞こえるのかな、と思ったけれどおばあちゃんは
「いーえ、ハッキリ喋るのよ。それで、悩みなんかきいてくれちゃうの」
 と言った。でも、昨晩はウイスキーでほろ酔い状態だったから、冗談で言ったのかも知れない。
 種ごと飲むように食べて、お腹が西瓜でいっぱいになった光里は、ふう、とため息をついた。暑いけれど、いつものビルの間とコンクリートを通ってくる熱気とは少し違う空気が、光里を優しい気持ちにさせた。よし、と立ち上がり、おばあちゃんが洗濯物を干しているところまで行って、残りの半分を手伝った。
「ありがとう、偉いねえ」
 とおばあちゃんは凄く褒めてくれた。両親の帰りが遅いこともあるので、洗濯をたたんだり、片付けたりすることだって出来るし、温めたご飯に卵をのせるだけのオムライスくらいなら、作ることだって出来る。
 光里はそうして褒められるのが嬉しいけど少し寂しいんだと、お母さんにもお父さんにも言えなかった。色々出来るようになれば両親は喜んでくれるけれど、だったら私たちはいらないね、と二人とも家に帰ってこなくなったらどうしようと思った。
だから本来ならもっと色んなことが出来るはずだったけれど、ある程度にして、出来ないふりをした。
 光里は風鈴の音を聞きながら、買ってきた二冊の漫画を読んだ。一冊は好きな作者さんの新作だったけれど、この話はあまり好きじゃないと感じて、それでも最後まで読んだ。もう一冊は友達に勧められた作品の一巻だったけれど、こっちはかなり面白かった。恋愛ファンタージって感じで、たった数話で話が二転も三転もして、すごくワクワクした。
「二巻も買えば良かったな…」
 そう言って、ゴロンと縁側に横になった。髪を撫でるように吹く生暖かい風も、軽快な風鈴の音も、少し離れたところにいるすだちも、おばあちゃんが家の中を動き回る音も、なんだか好きだと思った。ここにくるまではきっと退屈でどうしようもないだろうと思っていたけれど、まだ一日目だから目新しさもあるし、久しぶりに会うおばあちゃんは愉快で面白い人だったから、まあまあ楽しめている。
 すると
「なあんだ、思ったより大丈夫そうじゃん」
 と声がした。幼い男の子みたいな、可愛いけれど生意気そうな声色だ。ハッと顔をあげると、さっきまで気怠そうに転がっていたすだちが、立ち上がっている。そして「よっこいしょ」と人間みたいに猫背で縁側に座った。
 おばあちゃんからきいてはいたけれど、急なことだったので、光里は声が出なかった。そんな光里の様子なんか知らん顔で、耳をぴょこぴょこ動かしながらすだちは話し続けた。
「いやあ、家に来たときは暗い顔して、どうしたもんかなって思ったけど、いらん心配だったニャア」
 光里は、瞬きも、息をのむのも忘れていた。ようやくすだちもそれに気が付いて、大きな瞳とピンクの鼻のついた小さな顔をグッと光里に近づけた。
「おぉい、きいてる?」
「え、ああ、うん」
 やっと声が出た。光里は目の前で喋っているのが確かにすだちだと確認して、深く息を吸った。すぐにおばあちゃんを呼びたかったけれど、さっきまで忙しく家の中を歩き回っていたおばあちゃんの足音がきこえなくなっていた。どこかへ行ってしまったみたいだ。
「まあ、ここでゆっくり過ごして、おばあちゃんにも気なんかつかわないで、子供らしくしてたらいいんだニャ」
 すだちはそう言っていかにも招き猫みたいに笑った。光里は段々、すだちが喋っているのが当たり前で、おかしなことじゃないように思えてきた。いかにも人間らしく振る舞うすだちの姿がそうさせるのか、日が昇ってきて朝から段々と暑くなってきた空気がそうさせるのか、いつもと違うおばあちゃんの家だからか、わからなかった。それに、すだちがなんだかバランスの悪い話し方をするせいで、猫もこれくらいなら喋れるのかも、なんて気さえした。
「子供らしくなんて、無理だよ」
 光里は愚痴を言うように呟いて、裸足の足をぶらぶらさせた。
「どうしてミャ?」
 すだちのヒゲがピクリと動く。
「だって私が我が儘言ったら、皆困るでしょ」
「皆というと?」
「おばあちゃんも、いつもならお母さんもお父さんも」
「そうかニャア」
「そうだよ。良い子にしていたら皆嬉しそうだし、毎日働いてるお父さんもお母さんも、私を預かってくれたおばあちゃんのことも好きだから、ちょっとでも光里がいてよかったって思って欲しい」
「大人だねぇ」
 すだちはそう言って、うんうん、と頷いた。光里は最初こそ少し不気味にも思えた喋るすだちが、段々可愛らしく思えてきて、笑いそうになった。
「でもアンタがさ」
「光里」
「え?」
「私、光里って言うの」
 すだちは満月みたいに丸くて黄色い目をさらにまん丸にして、光里を見た。肉球のついたフカフカした手で頭をかくと
「じゃあ光里。光里が何も出来なくても、たまには思ったこと言っても、みーんな光里がいないほうがよかったなんて思わないミャァ」
 と言って、フンと鼻を鳴らした。
「役に立ちたいと思うのはいいことだけどさ。僕なんか、なあんの役にも立たないし、好き勝手しているけど、おばあちゃんに可愛がって貰ってるニャ」
 光里は、うーんと唸って
「いいのすだちは、猫だから」
 と言った。すだちはにんまり笑った。
「じゃあなんでそんな寂しそうだったのさ」
「え?」
「車から降りたとき、良い匂いがするカレーライス食べ終わったとき、昨日縁側で麦茶を飲んでるとき、今朝だって、光里は寂しそうだったねぇ」
 光里はそう言われて、すだちにならなんとなく話しても良いな、と思った。すだちが猫だからってこともあるし、真剣に話をしてくれている感じがして、嬉しかった。
「本当は、旅行だって行きたかったよ」
「うん」
「昨日も二人ともすぐ帰っちゃったけど夜まで一緒にいたかったし、オムライスだって自分が作ったやつじゃなくて、ママのウインナーが入ったケチャップライスのオムライスが食べたいし、良い子だ、良い子だって褒められても、そう言われるほど良い子でいなきゃって思って、あんまり嬉しくない」
 光里は、でも、と付け加えた。
「言っても変わらないってわかっていることをどんなに言っても、しょうがないし」
 すだちは
「どうにもできなくたって、我が儘言いたくなることあるニャ。そーいう時は吐き出して、困らせてやったらいいんだよ」
「え?」
「光里は良い子だけど、良い子でいようとしなくていいんだニャア」
 そう言ってすだちは、どこからともなく大きなおにぎりを二つ取り出して、一個を光里にぐいっと差し出した。
「誰かが作ったおにぎりは美味いぞお」
 そういえば、お腹がすいていた。光里は生唾をごくりと飲み込んで、差し出された丸に近い三角の、のりがべったりくっついたおにぎりを受け取った。
「まあ食べろ、食べろ」
 そう促されて、大きな口で、思いっきりおにぎりを頬張った。顎がゾワッとするくらい強く塩がきいていて「んー!」と声が出た。ちょっと冷めた塩たっぷりのお米と、水分を含んだのりと、食べ進めて出てきた真っ赤な梅干しが、とても美味しかった。夢中になって、光里はおにぎりを頬張った。何だか美味しすぎて、泣きそうになって、猫にこんな美味しいおにぎりが作れるのか、と不思議になった。
 脇目も振らずに食べて、大きなおにぎりがすっかりなくなって横を見ると、すだちはいなくなっていた。
「すだち…? すだちー!」
 縁側に立ちあがって、大きな声ですだちを呼んだ。けれど、猫背でにんまり笑うすだちの姿は、見当たらなかった。あんなに沢山食べたはずなのに、お腹はすいたままだった。
 呆然としていると
「あら光里、寝ちゃってたの」
 おばあちゃんの声がした。ハッと、突然意識がはっきりして、立っていたはずの縁側に仰向けで寝転がっていることに気付いた。大きな帽子を被ったおばあちゃんが上からのぞきこむようにこちらを見ていて、光里と目が合うと微笑んだ。
「日に焼けるわよぉ、そんなところで寝ちゃ」
ちょっと呆れたみたいに言う。
「暑くなってきたわね。クーラー入れよっか。窓閉めるから部屋の中においで」
 光里は、何が起こったのか分からなくて、慌ててあたりを見回した。いつの間に私は仰向けになったんだろう。寝ていたって、どういうことだろう。
 窓を閉めて、クーラーのボタンを押したおばあちゃんが台所へ向かったので、光里はそのあとを付いて行った。
「おばあちゃん、すだちはどこ?」
 戸棚を開けながらおばあちゃんが答える。
「えー? さっき階段の下に居たけど、どうしたの?」
「あのね、すだちが、喋ったの!」
「あれ、やっぱり! 光里も会ったんだ、喋るすだち」
「会った!」
「縁側でうたたねしちゃうとね、時々現われるのよ。そっかあ、やっぱり光里にも話しかけてきたのね。不思議ねえ」
「うたたね…じゃあ夢ってこと?」
 光里は何だかちょっと、ガッカリした。
「多分、そうね。でも、なぜだか夢には思えないのよねえ。変でしょ」
「うん…」
「さ、光里、お昼ご飯何にしようか…あれ? 何か食べたの?」
「え?」
「これ」
 おばあちゃんはそう言って、光里の口元に付いた米粒をつまんで取った。今日はまだスイカしか食べていないはずなのに、どうしてだろう。
「もしかして…」
 おばあちゃんと光里は、顔を見合わせた。台所にすだちがノソノソと歩いてきて、ニャァと鳴いた。何も知らないような、でも何か言いたそうな顔で。
 光里は、おばあちゃんの家に来たときよりも、ずっと心が軽くなっているのを感じた。そして、たまには考えていることをそのまま口に出してみよう、と素直に思った。
「おばあちゃん、私、オムライスが食べたい!」

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 おわり

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2024 an

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