拠り所はふらっと寄れるところ
「けっかはっぴょーーーう!!」
浜ちゃんの声が脳内再生される。
おもにSNSで、今年あげた成果や実績を振り返る投稿を多く見かける。
わたしの今年の実績は、まだ今年を振り返っていないから思い出せないのだ。ということにしておきたい。
…わたしは仙人ではないし、メンタルマネジメントに長けたアスリートでもない。
素直に「おおすごいね!おめでとう!」と拍手で讃えられるものもあれば、残念ながら自分の取るに足らないプライドやなにやらが邪魔をして、一瞬のためらいののち「❤」や「👍」を押すものもある。
1年12ヵ月は長いようで短いし、でも人や環境が変わるのにはじゅうぶんな期間だ。
この1年、人によっては病気や家族の都合や、いろんなことが重なって「成果なんて追う前に、1日1日生きていくだけでいっぱいいっぱい」だったかもしれない。
あるいは長くコツコツと続けてきたものが花開き、ノリに乗っている人もいるだろう。
大切な人を亡くして深い悲しみのなかに身を置く人もいるだろうし、宝くじや万馬券を当てて一気に生活が変わった人だっているかもしれない。
変わっていくのだ。
人も、環境も、景気も。
自分も、他人も、組織も。
つまり、自分が拠り所としているものだって変わっていく。
それは別れの始まりかもしれない。
「方向性の違い」
「価値観の変化」
居心地の悪くなった場所にいつづける意味はない。
自分から卒業しようが、相手が発端となろうが、それでも離れるとなれば喪失感と孤独を味わうことになるかもしれない。
マンネリ惰性でダラダラつき合ってきたカップルが別れるときのように。
でもね、みんな各々のテンポとリズムで変化しつづけるということは、逆にいえば今まで関わってこなかったような人や、ずーっと疎遠になっている人とも、どこかでばったり出くわす可能性があるわけで。
だからわたしは思う。
いつでも風呂敷をサッと畳めるようにしておきたいと。
もうあと5日すれば始まる新しい年に、どんな別れがあるのか、あるいは出会いがあるのかは予想もつかないけれど、どっちにしたって潔い自分で在りたいのだ。
しがらみからは離れ、できるだけ固執するものも少なく、ふだんは心地良い距離感を保ちながら、でもいざとなったときには互いに頼れる。
そういう人が数人いたらいい。
…わたしの理想はそんなつながりであり、そういう場所が「拠り所」だ。
毎日顔を合わせるわけではない。
もしかしたら数年間、10年以上、会うこともないかもしれない。
でも顔を合わせたときには、まるで昨日も会ったかのように会話が自然と滑り出すような。
人も組織もどう変わっていくか、自分には予想しきらない以上、せめて自分の在り方だけは明らかにしておきたい。
そんなことを、大勢の人が行き交うターミナル駅の雑踏のなかで考えるのであった。
今日も読んでくれてありがとうございます。
あなたの「拠り所」はどこですか。