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わたしたちは何をみているのか
松本人志さん、中居正広さん、ジャングルポケット斉藤さん。
熱烈なファンではないけれども「どちらかというと好き」で、年末のガキ使も有吉の壁も楽しみにしていたし、中居くんのラジオはたまに聴いていた。
彼らが何をして、テレビに出ないで今どうなっているのかはわたしは知らない。調べてまで書こうとも思わない。
書きたいところはそこではない。
いったいわたしは何をみていたのだろう、と最近よく思う。
どちらかというと好きな人たちが、やってはいけないことをテレビの世界の外側でおこなっていて、テレビの世界にいられなくなった。
ここまで相次いで姿を消されると、テレビでみていた彼らはいったい何だったんだろうと思わずにいられないのだ。
どちらかというと好きだった事実は変わらないけれど、どうして好きだったのか、なにをみて好きになったのか、それらは全部嘘だったのかな、と思う。
そして、これはテレビの向こう側の人たちだけに当てはまる話ではない。
今わたしが好き好んでつき合っている人たちも、わたしの知らない側面がたくさんあるだろうし、わたしがみている一面も実はつくられたものかもしれない。
いったいわたしは何をみているんだろう。
そう思うと、人も自分も信用ならない。
しかしそれでは世の中をとても生きづらい。拠り所がなければ何の選択も判断もできないし、常に疑心暗鬼では誰ともつきあえない。
MPがいくらあっても足りない。
信用できない自分の目でみたものを、疑いながらもどこか信用に足る部分を探して拠り所にしながら、好きとか嫌いとか、合うとか合わないとか、さばいていくよりほかない。
そう思うと、正解や間違いもない。
正誤の判断だって信用ならないものだから。
ということは、いろんなことをうんうんうなって考える行為は意外とあんまり意味がなくて、「まあどうせ自分なんてあてにならないし」と諦めて気楽に生きていくほうが的を得たやり方な気がしてくる。
著名人といわれる人たちがYouTubeはじめSNSで身近な存在に感じられるようになったし、インターネットあるいはAIで何でも調べられるようになったし、下手すると何でもわかるような気さえするけれども、皮肉なもので何にもわかっちゃいないことを突きつけられている。
信用ならない、わかっちゃいない。
これからはそういうスタンスを持っていたほうが、少ないつまずきで生きていけるかもね。
まあ、これも信用ならない考えだけど。
今日も読んでくれてありがとうございます。
最近あなたが信用ならないなーと思ったことはなんですか?