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繰り返す=LIFE
夏休みの終わりに宿題が終わっていない子どもたちが、泣きそうになりながらタスクをこなしていく姿を見ていたら、自分だって同じようなものかなと思ってしまった。
宿題は7月中に終わらせようと最初は思っていたはずなのに、気づくともう8月の終わりなのだ。人生もそんなものかなって。
自転車で知らない道をあえてゆくのが楽しくて、遠回りしてサイクリングしていた。夏の終わりの涼しくなってきた風を頬に感じ、芝生のある公園の脇を走って虫の声を聴いたとき、ふいに
『何がなんだかわからないままで、今世終わっちゃうじゃん!』
と呟いて、ひとり笑ってしまった。
「どう生きるか」とか「自分は何がしたいのか」とか、若いころにはよく考えていた。友人ともそんな話ばかりしていた気がする。若いころはそれでよかった。可能性はたくさんあったし、その命題自体を生きることがまた、「いまを生きている」ことだったのだから。
でも気づいたらそれから数十年たっても、いまだに同じ命題を抱えていた。タイムリープしているかのように、何度も何度もループしている。こんなに何度も同じようなことを考え、悩んでいるうちに、『何がなんだかよくわからないままに、人生って意外と終わってしまうのかも』と思えてきたのだ。
それも悪くないか、そんなものなのかも、と笑ってしまった。来世の自分に心の中で「ごめんね!」と言いながら。
落ち葉をほうきで掃いても掃いても、振り返るとまた積もっている。
昔、保育園でアルバイトした秋の日々のことを思い出す。入り口にある大きな樹々の落ち葉掃きの仕事は、永遠に完璧には終わらない仕事だった。当時わたしは、その繰り返しのことを「LIFE」と呼んでいた。
繰り返すこと=LIFE=生きること
春夏秋冬のなかにLIFEがある。
冬至と夏至と繰り返す。
もしかしたら、前世と今世と来世も。
繰り返しの環(わ)の中に、命がある。
樹々の枝に葉がなくなって落ちきったとき、それが一つの終わりだけれど、翌年また落ち葉が舞うだろう。命はまわっている。今年もあの保育園では秋の朝になると、誰かがほうきで落ち葉を掃くのだろう。
若い頃は若い頃なりに、今は今なりに、家族も違えば友人も違って、住む環境も違うけれど、いつも「どう生きるか」「自分は何がしたいのか」を繰り返し問うている。(わたしが哲学者だからか?)
でも昔よりは今の方が気楽だ。「どう生きてもいい」「したいことをしたらいい」ということが、経験によってわかっているから。答えなんて、自分にしかわからない。正解なんてない。
仮に平均寿命まで生きるとしたって、もう人生の半分は終わってしまって、輝くような夢や希望ももうない歳になってしまったけれど、それでも楽しく生きたい。「どう生きるか」それはそのつど調整しながら、変化していくものだ。時代だって変わる。まわる。
ここ数年、「どう生きるか」よりも、「誰と生きるか」がほんとうに大切だなと感じるようになった。好きな人としかいたくない。好きじゃない人のことを考えて頭を悩ませている時間がもったいないから。
「好きな人と生きる」そう決めてから、友人と呼べる人の数は少なくなったのかもしれないけれど、好きな人しか周りにいなくなった。好きな人といられたら、わたしは幸せだ。好きな人はまた、わたしを大切にしてくれる。
これからも、くるくると環(わ)の中をループしながら、この命を楽しんで生きてく。春夏秋冬を繰り返していく。命が尽きても、また命はつづく。LIFEだからね。
よかったら一緒に遊ぼう。