ADHDの頭の中(教師との関係)
昔のことを文字にして起こすことで、自分自身もちょっと心にダメージを負っているところがあるので、この先についても書いてしまってよいのかと考えてしまい、しばらく書くのを止めていました。でも、向き合うことでプラスとなる部分もあると思うので、無理にならないようにペースを落として書いていこうと思います。
幼稚園から小学校まで
階段を転げ落ちたのは母の実家だったけれど、父の実家にもよくあずけられていた。
わたしは扁桃腺が大きく、月に1回は熱を出していたが、かかりつけの小児科は父の実家であるほうの祖父母の家に近かったし、小児科の先生に診てもらうとき、いつも一緒にいくのは母だったわけでは無かった。小児科にいくときはお祖母ちゃんが一緒だったような記憶がある。
母は、わたしが3歳になる前から幼稚園で仕事をしていた。
当時、小さな子どもを預けて仕事に行く人はそんなに多くなかったので、幼稚園の3歳児クラスにちょこんと置いておかれることもあったように思う。でも、熱を出せばそこに連れて行くことも出来ない。そういうときは、父方の祖父母の家に置いていかれたのだろう。
わたしが4歳になって間もなく、母は幼稚園を退職し、わたしは自宅近くの幼稚園に転入した。母が勤めていたのはキリスト教系の幼稚園で、礼拝堂があり、幼稚園からみて礼拝堂の向こう側には牧師さん(プロテスタントだったのかな)が住んでいた。
他の園児が帰ったあとは、園に残る子どもはわたしだけだったので、礼拝堂を抜けて牧師さんの部屋に行き、お菓子をいただきながらイエス様の話を聞いていたと思うが、お話よりも礼拝堂が暗くて怖くて、そっちのほうが記憶に残っている。
転入先の幼稚園は仏教系で、園長先生はお坊さんだった。
小さいうちにキリスト教の環境から仏教に移っためか、小さい頃からわたしにとって(既存の)神様(という概念)の存在は希薄になったかなと思う。
教師への不信
幼稚園では、不思議といじめられた記憶はない。
わたしは3月生まれで、幼稚園くらいのときは4月生まれとは1年近く離れているわけなので、4月5月生まれの子たちに赤ちゃん扱いでいろいろ教えてもらっていたような気がする。
けれど、ひとつ憶えていることがある。先生にはちょっと嫌がらせをされていた。
自分自身がどんな子だったか・・・といっても幼稚園児に自分を客観的に観察するなんてことが出来るわけがないので、よくわからないのだが、たしか年長のクラスのときに先生に叱られて悔しくて泣いた記憶があり、そのとき友だちに
「幼稚園に来てから一度も泣いたことがなかったのに、泣いちゃったね」
と言われたのは憶えている。背の高い女の子だったと思う。
確か、悔しくて泣いたのだ。
休み時間におりがみをして遊んでいたのを咎められて泣いた。
おりがみを使うには先生に許可が必要だったので、わたしは友だちと一緒に先生に
「おりがみしてもいいですか?」
と、聞きに行ったのだ。
先生は笑顔で「いいですよ」と言った。
でも、どうやらその後の時間におりがみを使う予定があったようなのだ。
おりがみがいくらか足りないのを見つけた先生は、自分で「いいですよ」と言ったくせに「誰が使ったの!」と急に怒り出したのだ。
わたしは「おりがみしてもいいですか?と先生に聞いてから使いました」と言ったのだけれど、先生は怖い顔で友だちを見ながら「そうなの?」と冷たい声で言った。
先生に睨み付けられて強い言葉を浴びせられたことで、友だちは萎縮し、震える声で
「おあそびしてもいいですかってききました・・・」
とこたえた。
先生は満足そうに笑って、そうでしょーそうよねとか言っていたが、そもそも子どもが普通に遊んでいる時間で、先生に「おあそびしてもいいですか?」なんて聞くわけもない。
わたしは、嘘つきにされたショックと、先生に嘘をつかれて悪者にされたショックで泣いた。
N先生、ご存命かどうか知らないけれど、顔も名前も憶えてます。
多分だけれど、その後無視された記憶もあるので、わたしは先生にとって可愛げのないこどもだったのだろう。わたしは、先生を敬うとか嫌うとか、そういう感想を教師に抱くことはなかったので、記憶にあるのは、嘘をついたりされて悔しかったからなのだろう。
小学校の1~2年の担任については、名前は変わった名前なのでおぼえているが、どういう先生だったのか全く記憶に残っていない。
ただ、その先生が、こんなことを母に言っていたそうだ。
授業を聞いているのかどうかわからないし、教科書も開かない。
どこか別の世界に気持ちが行っているみたいな感じ。
でも、当てると答えるので、内容を理解していないわけではない。
得意なことと苦手なことの差が大きい。
忘れ物が多いし、メモもとらない。ノートも書かない。
叱られても、反省をしている様子がない。
反省しているとかしていないとかより、多分だけれど先生に言われていることがよくわからなかったんだと思う。本はやたらと読んでいたので、文章の理解力は低くはなかったのだと思うのだけれど、言葉で伝えられたことはほとんど頭に入らなかった。
先生が怒ってエキサイトしてくると、何を言っているのだか全くわからなかった記憶はある。だから、困ってはいるし、ごめんなさいとは思うのだけれど、そんなときにどう振る舞ったらよいのかは、わたしには全くわからなかった。
もともと文字を書くのが苦手で、聞き取りも得意じゃなかった。
だから、帰りの会とやらで明日持ってくるモノを言われても、それを書き取ることは出来ないのだ。極めて無口な生徒だったけれど、作文の点数は比較的良かったので、メモを取れないと言っても信じてもらえない。
信じてくれない先生に何を言えばいいのか。
聴力には全く問題が無かったが、入ってきた音声が言語として頭に入ってこない感じ。
自分はちゃんと言葉として聞き取れていないくせに、音読は上手で、ちゃんと感情を込めて抑揚をつけて読めると言われた。
上手く言えないのだけれど、まずザワザワしていると特定の音を選んで聞き取ることが難しい。帰りの会なんて、みんな帰る支度をしていてざわざわしていて最悪だった。
あと、追い詰められて心に余裕がないとき、音としては聞こえてくるのだけれど、それが意味のある言葉として入ってこない感じがしていた。
雑音を遮断して、ゆっくり話してもらえば聞き取ることは出来た。
さらに言えば、子供の頃から頭痛持ちで頭鳴りもあったので、大きな声を出す人は苦手だったし、人混みも苦手だった。小学校の先生という職業の人は、大きくハキハキとした喋り方をする人が多いし、子どもはちょっと油断するとざわざわと騒ぐものだ。学校という場所は、わたしの苦手な環境そのものだったと言えるかも知れない。
当時は聴覚情報処理障害(APD)という言葉もないし、脳過敏症候群なんて認識も無かったので、言ったところで仮病みたいに言われるだけだった。
そういう状態に意識を向けないよう、学校にいるときは感覚を鈍くして、常にぼんやりと空想していたような気がする。だから
「どこか別の世界に気持ちが行っているみたいな感じ。」
と言われれば、まあそうかも知れない。
ノートもメモも書けないから、忘れ物が多くなるし、先生の指示を聞き取れないから言われた通りの行動が出来ない。
みんなと同じ行動がとれないから、いじめられたといえばそういうことになるのかもしれない。
実は、息子も多分同じで、1年生の頃に
「みんなと同じように行動が出来ません」
と家庭訪問で言われたので
「ひとりひとり能力の違う子どもなのに、すべての子が同じように行動しなくちゃいけないなんておかしくありません?」
と、先生にストレートに言い返したら、とんでも無いものをみたような顔をして
「それが集団生活なんですっ」
って言い返されたので
「子供のうちからみんな同じように育つ必要なんて無いと思いますよ」
と、ドライに言った記憶がある。
以下、その後何を言ったのかは詳しくは憶えていないけれど、個性なんてクソ喰らえみたいな管理教育タイプの先生だったので、わたしのほうもちょっと意地悪な気持ちになってきて、某論破王さんみたいなツッコミを入れていたような気がする。
お気の毒なことに、うちのあとに行ったおうちのお母さんが、
「先生がすっごく不機嫌だったのよ~」
と言っていたので、八つ当たりされたのかもしれない。
「あーわたしバチバチに言い返しちゃったからねー ごめんねー」
と、謝っておいた。
この先生、授業参観に行ったときに表情がくるっと変わるのをみたことがある。
子どもの方に顔を向けているときは目がつり上がっているのに、大人(親)の方を向くときにくるっと笑顔に変わるのだ。ただそれだけなら驚きはしなかったのだけれど、再び子どもの方を向くときに、さっと鬼みたいに目がつり上がる・・・。多分だけど、本人は気づいていないと思う。
先生にとっても何かストレスやトラウマがあったのかもしれないけれど、ちょっとこの先生に子どもを任せるのは怖いと思った。
小学校は、担任がほとんどの授業を受け持つ。
ひとりの教師がクラス全員を長時間みているのだから、その影響は大きい。
息子の場合、3年生以降の先生は、じっくり話を聞いて対応してくださる先生だったので、親としても安心して通わせることができた。
ちょっと話が逸れた。
わたしは、先生との信頼関係を作れなかったので、そこのところはどうにもならなかったなと残念には思う。でも、先生にとっても扱いにくい子だったようだし、私自身が先生に何も期待していなかった。
息子の担任と話したときも、教師がそういう風に子どもを自分の都合で動かすから、そこについていけなくていじめられる一面があるのだという想いから、なんとなく自分の怒りが吹き出してきてしまって、そんな風に反論してしまったのかも知れない。
わたしは自分が子どもだった時点では教師には何も期待して居なかったし、そのときそのときの感情についてはあまり記憶が無いのだが、教師のついた『嘘』や心無い言葉については記憶にあるので教師へについての不信感はあったのだと思う。
言葉で他人に対してコミニュケーションを取ることが得意で無かったわたしは、教師に相談したりすることも無かったので、特に小学生の頃に出会った担任については印象があまり残っていない。
家の事情などで小学校を3回転校しているが、どの小学校にいっても無口で主張の無い子だったのは変わりがなかった。
ただ一度だけ、先生にお願いをしたことがある。
3回目の転校は、ある意味『家出』で、学校の先生に相談して転校の書類を揃えてもらった。親に連絡しようといわれたけれど、連絡先は祖父にしてくださいとお願いした。転入先にも自分で書類を持っていった。
祖父は、子ども時代のわたしに大きな影響を与えた人であり、わたしにとっては「なんでもできるひと」だった。お爺ちゃんのように何でも出来る人になりたかった。
次回は祖父についてお話します。
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