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国語力というけれど


国語力というのはわかりやすくはかることはできないものです。そういうものだ、それでいい、と基本的に私はそう思っています。

しかし曲がりなりにも国語教師という肩書をもって子どもや保護者と接していると、それだけで済ませるわけにはいかないですね。「国語力ってかんたんにはかれないものなんです。そういうものなので、そういうものとして受け止めてください」なんて言っても、腑に落ちない困惑の顔をされるか、期待が外れてがっかりされることは私にだって易く想像できるというものです。人様の喜ばしくない顔を拝むのは私だって良い気持ちにはならない。だからそれなりに、もう少し解像度の高い答えを言うようにしています。
たとえば、こんなのはどうでしょう。

 国語力というのは大きく二つ、「論理力」と「想像力」から成り立っています。「論理力」というのは文と文のつながりを正しく読み取ることのできる力のことです。特に説明文論説文ではこの能力が問われます。書き手はあくまでも論理的に結論に導く。それが論説文です。じつは物語でもそうですよ。物語は正しい読解なんてないだろう、読者によって読み取り方は様々だろうって思う方もいるかもしれませんが、それは留保なしに正しいとは言えません。小説家は不特定多数の読者を想定して物語を文字に起こすわけですが、どこの誰が読むかわからないからこそ、だれが読んでも筋道がつながるように「Aと書いたらそれはA´を意味する」という共通ルールをまずもって踏襲しています。これがすなわち論理というやつです。だから、物語だって論理力がないと読めません。一方で物語は「想像力」も求められます。物語というのはつまるところ主人公の心の変化を描くものなのですが、その心の変化に思いを巡らせてみること。主人公に同調してみること。これが想像力というやつです。詩歌ではこの想像力がますます求められます。

こんな風に説明すると、「国語力」の正体が多少明瞭になってきたような気がします。「国語力ってなんですか」と尋ねた質問者もちょっと納得がいったような表情をしたりして、その表情を拝んだ私も、ミニカイロをひとつお腹に張ったときくらいの安堵を得ます。

しかしながら実のところ、国語力ってそんなふうに「A=B+C」で片づけられるものではない。強かないたずらっ子のような気質があって、大人が分かりやすく分別したそばから例外を出して裏切ってくる生き物なんです。

ラッキーなことに、私は学校時代から国語の教師に非常に恵まれてきました。ほんとうに力のある教師達に国語の教えを受けてきました。彼らから学んだ国語の知識はほぼ忘却の彼方に飛んでいきましたが、彼らのちょっとした雑談の欠片のいくつかは今でもよく覚えています。
たとえばM先生はこう言いました。

「心配するな。国語ができれば社会に出てからやっていけるから。」

数学ができる子がもてはやされがちな学校の現場で、M先生は「社会に出てから」という地平を子どもに示し、国語をその中心に添えた。以来私にとって国語が一目置く存在になりました。

それから、たとえばO先生はこう言いました。

「何で国語の教師になったかというと…、僕はまあ、高校時代にどの科目もよくできたわけ。僕だけじゃなくて周りの連中も大体みんな学校の勉強程度だったら問題なかった。それで、僕は最初数学の教師になろうと思ったのね。他の連中も数学の道に進もうとする奴が多かった。そうしたら当時の担任が僕に、『君はなんでもできるから、それなら国語教師になりなさい』って。『数学ができる奴はほかにもたくさんいるけど国語ができるやつはそれほど多くないから競争相手が少ない』って。だから国語の道に進んだんだ」
 
 どうでしょう。国語力というやつの正体はかんたんに掴めない。しかしながら大人になってから社会の中で生きていくために一番重要な科目であり、その力を持つことは他の科目が良くできること以上に稀少らしい……。

 もっとも日常的な「国語」という科目が、実のところ、否だからこそ、もっとも広い領域にまたがり、もっとも習得に時間がかかり、もっとも「社会の中で生きる」質を決めるものであるのだと、ひとまずはそう言ってよさそうです。


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