今日ときめいたTV番組258ー「敗戦国日本の決断マッカーサー『直接軍政』の危機」
この記事は、
「敗戦国日本の決断マッカーサー『直接軍政』の危機」(NHK「昭和の選択」2024年8月13日放送)
を見ての感想です。
日本の終戦時に対する我々の共通のイメージは、
「耐え難きを耐え忍び難きを忍び・・・」という8月15日の天皇の放送。その後マッカーサーが厚木飛行場に降り立ち(コーンパイプをくわえてレイバンのサングラスで降り立つ姿)、連合軍が進駐してきてミズーリ号上での降伏文書調印式。
だが実際にはそこに至るまでに、統治を巡って日本側とアメリカ側の間に緊迫した折衝があり、そこに日本の外交官や軍人の奮闘があったということを知り、そのことにもっと光が当てられてもいいのではないかと思った。ほとんどのメディアは戦争の惨状と懲罰的な内容のお決まりの映像を流すだけだから。
まず、戦争終結といってもその時日本の陸海軍は300万人ほどいて、軍の一部は徹底抗戦を主張していたという。そんな中で降伏処理は危険に晒されながら行われた。ヘッダーの飛行機は、マニラにいる連合軍から召喚された日本の代表が乗ったものだ。古い軍用機を白く塗り緑十字を描いたもの。
8月19日おとり機2機、代表団の乗った2機、4機でで飛び立つも厚木飛行場にいた航空隊に銃撃を受けたり追尾されながら、なんとか沖縄の伊江島に着き、アメリカの軍用機に乗り換え夕方マニラに到着した。
代表には軍人とお目付け役として外務省官僚が同行している。その時、8月23日先遣隊の上陸、25日マッカーサー上陸、28日降伏文書調印式という日程が言い渡される。帰路一機が消息不明になりながら調布飛行場になんとか胴体到着した。
だが飛行機の残骸が残る厚木飛行場の整備は困難を極めた。台風の襲来などでマッカーサーの上陸は30日になり、調印式は9月2日になった。
1945年9月2日にミズーリ号上で行われた降伏文書調印式
同日午後4時、日本の統治について以下のような3布告を示され、すでにビラ10万枚が準備されていることを知らされる。
三布告 (Wikipedia から引用)
布告第一号:立法・行政・司法の三権は、いずれもマッカーサーの権力の管理下に置かれ、管理制限が解かれるまでの間は、日本国の公用語を英語とする。
布告第二号:日本の司法権はGHQに属し、降伏文書条項およびGHQからの布告および指令に反した者は軍事裁判にかけられ、死刑またはその他の罪に処せられる。
マーシャルはさらに布告第三号に関してB円の現物を鈴木に見せ、すでに3億円分のB円を占領各部隊に配布してあることを伝えた。布告を日本国民に知らせるためのポスターも約10万枚用意してあった。
この3布告の撤廃を求めて一晩中交渉にあたったのが、先のマニラにお目付役として同行した外務省の岡崎勝男とその配下の鈴木九萬(ただかつ)であった。鈴木はこの間のことを日記に記録している。
この2人の精力的な交渉は功を奏し、ビラの配布は取りやめになり、軍票も使われることはなかった。ドイツのように4分割されて直接統治されることもなかった。だが沖縄だけが取り残され直接統治になってしまった。沖縄が本土復帰するのは1972年である。連合軍による日本本土の統治は7年間続いた。