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「私たちはなぜ学ぶのか?」(3)ーそれは学ぶことが楽しいから

(2022年10月5日付 朝日新聞「私たちはなぜ学ぶのか」評論家 宇野常寛氏の考える「学ぶ意味」についての記事である)

「私たちはなぜ学ぶのか?」それは、                  「学ぶこと自体が楽しいからだ」

「学ぶ楽しさ」は、本来的なものであるので、学びが役に立つかどうかなどという発想は、学びの快楽を小さなものにしてしまう。

「ただ学ぶことが楽しいのだ」

だから、学びによって、知らなかったことを吸収し、世界の見え方が変わったり、アイディアが浮かんだりした時は一番楽しい。外から吸収した刺激が大きければ大きいほど自分の中の化学変化も大きい。こういう時が一番快楽の度合いが高まる。そして、それを本にする。

一人で思考するときはランニングと瞑想をする。何か目的があってそのために行動する時は、その目的に気を取られて偶然目に入るものに関心を払わなくなる。ランニングは走ることそのものが目的だから、たまたま触れるものや目に入るものに気持ちが向いて、意図しない刺激を受ける。

「学ぶこと」は一人になることを要求する。一人で世界に向き合うことは、本来快楽であるはずだ。人間と関わったり、SNSにつながっているとそこから影響を受け、新しい問題設定ができなくなり、創造者としてダメになる。

「大人が一人で遊べないとしたらダメだと思うんですよ」

(宇野氏は、自由に思考するために、もう長いこと業界の人とのつきあいを絶っているそうだ。またネットワークからも切り離された時間を持とうとしている。だから人間関係そのものからではなく、何らかの物事に興味を持って集まって来る人と関わることで世界が広がり、それが最大の学びだと言っている)

「徒然草」や「方丈記」の作者のことが脳裏に浮かんだ。彼らも人との関係を断ち、「徒然なるままに」一人日常を透徹した観察眼で見つめたから珠玉の作品を生み出したのだろうか。

一人でいることをもっと楽しもう。


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