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今日ときめいた一冊283ー「論理的思考とは何か」(著者 渡邉雅子 岩波新書) (続)

先に書いた「今日ときめいた一冊269ー『論理的思考とは何か』(著者 渡邉雅子 岩波新書)」の続編である。

「論理的思考とは、

「論理的であること、論理的に思考することは社会的な合意によって作られる。作文構造に現れる『何が、どのような順番で並べられて結論を導くか』について書き手と読み手の双方の間に合意が成り立っていることが『論理的である』感覚を呼び起こす」

そして、

「その書き方が学校で教えられ、実際に使われることでそれぞれの領域で論理的であることが制度化され、思考の方法がパターン化される。そのパターンをもとに私たちは考えや感情を伝達する。論理的に考えることは、育った環境や信条も好みも異なる個人がパターン化された思考をもとに『非個人的に』、『安定して』、『伝達可能な形で』考えることなのである」

そして、それぞれの国の学校で教えられるパターンについて、前作では、アメリカ式エッセイの型と日本の作文教育で教えられる作文の型を示した。すなわち、

アメリカ式エッセイは、

序論 主張
本論 主張を支持する三つの根拠(事実)
結論 主張を別の言葉で繰り返す

五パラグラフ・エッセイは主張を冒頭に置き、その主張を支持する事実を3つに制限して論じる。思考過程を倒立させるエッセイの形式は、結論となる主張から逆向きに考える。小学校1年生から「私は・・・・と考える。なぜならば・・・・(I think…because…)」と定型化された言い方で意見を述べる訓練を行う。
この形式は、読み手が素早く書き手が何を言いたいかをつかむことができる。

このエッセイの書き方は、小学校から大学まで生徒の能力を測るために使われる。特に大学入学審査で求められる「志望校動機のエッセイ」で、この書き方は重視される。

一方で、日本式作文、特に感想文はアメリカ式エッセイのような論証の形を取らず、道徳的意味合いが強い。

感想文の型
序論 書く対象の背景
本論 書き手の体験
結論 体験後の感想=体験から得られた書き手の成長と今
   後の心構え

感想文の定義
「生活の中の直接の体験や、自己の見聞、読書、視聴したことについて、自分の感じたこと、思ったことを書き表した文章」
(詳しくは前作に書いているので割愛する)


この続編では、アメリカの直線的かつ簡潔な論理的思考とも情緒的な日本の論理的思考とも異なるフランスとイランの論理的思考について、そのエッセイの型に基づいて論じられたことをまとめた。

フランス式小論文は、ディセルタシオンと呼ばれ、弁証法を基本構造とする。

導入 ①主題に関わる「概念の定義」②「問題提起」③
   「3つの問い」による全体構成の提示
展開 弁証法:a 定立(正)
       b 反定立(反)
       c 総合(合)
結論 ①全体の議論のまとめ、②結論、③次の弁証法を導
    く問い

「弁証法は、論ずべき主題に対する『一般的な見方』、『それに反する見方』、『それらを総合する見方』を<正ー反ー合>の構成に位置づけて、<正>と<反>の矛盾を<合>で解決する。これら三つの見方を検討する中で、結論を導くためにあらゆる可能性が吟味される」

弁証法では、この吟味の「過程」そのものが重視される。弁証法の<正ー反ー合>の手続きを踏むことが十分な審議が尽くされたことを保証すると考えられている。フランスの資格試験で使われるディセルタシオンは決められた型で書かないと合格することはできないとか。

ディセルタシオンのパラグラフの内部構造は「主張+論拠+例証」の三要素=「論証の基本ブロック」からなる。書き手の主張(視点)を述べ、論拠を示し、その論拠を根拠付ける例を引用によって提示し、書き手が示した引用の適切さを述べる。

ディセルタシオンでは、書き手の支持する見方から「遠いものを先に持ってくる」点で、エッセイとは逆の展開構造になっている。その見方を弁証法の<正ー反ー合>で論証し、より大きな視点へと展開する。それぞれの論拠と論証も「重要度の低いものから高いものへ」「表面的なものから深いものへ」「より単純なものから複雑なものへ」と並べるのが一般的である。

エッセイとディセルタシオンでの要素の並べ方の違いは、エッセイが序論で宣言する「結論」を重視するのに対して、ディセルタシオンは弁証法の議論の展開に沿って見方が変化し押し広げられていく「過程」を重視することに起因する。

ディセルタシオンにおいては「私がどう考えるか/感じるか」という書き手個人の意見や体験、感情は全く意味を持たないと言われ、実際「私は(Je)」という言葉は出てこないし、書いてはならないのが規範だそうである。

書き手の意見や感情を入れないという点で、フランス式の
論理的思考法は、アメリカ式エッセイとも日本式作文とも大きく異なる。ディセルタシオンで求められる能力とは、この「全体」を作り上げる「構想力」である。ディセルタシオンの思考法は、一つの視点で押し通さず、それと反する視点を必ず思い描くこと、その対立の中から矛盾の解決法を探すことである。

この作文の型に仕組まれた<正ー反ー合>には、「自律的に考え判断すること」、「批判的にものを見ること」の能力を養うという教育的意味がある。

教科書に書かれたものでも盲目的に信じない、さらには「自分自身をも問いに付することができる」ようになる効用がある。この点、教科書に書かれたことはすべて正しいと教えられ、それを信じて疑わない日本の生徒とは対照的である。

今まで述べてきた作文の型と全く異なるのがイランの作文と論理である。イランの学校作文は、作文一般と「エンシャー」というペルシャ語で呼ばれる書く教育からなる。

エンシャーの型と論理

序論 主題の背景
本論 主題を説明する三段楽
   細かな主題群の三つの展開、三つの具体例など
結論 全体をまとめ、ことわざ・詩の一節・神への感謝の
   いずれかで結ぶ

このエンシシャーが扱うのは、自然現象、社会と道徳、宗教、国家の四つの主題についてである。これらの作文は、特に「文学的断片」と呼ばれ、比喩や韻を踏む文学的技法を使い「美しくて響きが良く、印象的で記憶に残りやすい」数ページを超えない長さのテクストを指すのだそうだ。

フランスのディセルタシオンがコミュニケーションと思考の制度化されたモデルとして機能しているように、エンシャーの文学的断片もイランの思考とその表現法を代表する型だと考えられる。

エンシャーの本論の進め方は、「全体から細部へ」と展開される。この作文の「論理的であること」とは、作文全体を序論・本論・結論の三つに分け、本論を三つに分けてかくことである。それが理路整然と書くことを保証し、この基本構造に従うことが秩序に従うことを意味するとイランの教科書は述べているそうだ。

この世界は神の計画によって作られた「秩序の集合体」として考えられており、自然も人間もその「秩序」に従うことは自明のことと考えられている。

「ここで意見や主張の個性や独創性、新奇性は期待されておらず、むしろ共同体から与えられた期待通りの道徳的・宗教的に正しい結論に落ち着くことが重視されている」

エンシシャーの特徴は、主題がいかなるものであっても、決まった結論、すなわち道徳的・宗教的に正しい結論に向かって落とし込まれていく展開をたどることである。

「イランにおける作文は、様々な主題を扱いながらも、それぞれの主題の多様な側面を、すでに決まっている結論に向けて準備する『目的論的』な志向が作文を書く論理を作っている」

この本には4つの論理的思考について書かれている。
それ以上に様々な論理的思考が存在し、それらの異なる論理的思考をもった人間が出会ってコミュニケーションを取ろうとした時、恐らく戸惑いや困惑や誤解が生じることだろう。この本はそんな時の我々の対処法を示唆してくれている。



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