虐待で自殺を考えた高校生が慶應に合格するまで

先日、慶應義塾大学でもっとも大きい学校祭である三田祭が終わりました。そしてそろそろクリスマスですね。街も綺麗に飾られる頃です。

死んでしまいそうでフラフラしていた私がいま人並みに青春している姿を見たら、なんて思うだろう。まさに奇跡としか言いようがない。

しかし、ここまで来れたのは、私だけの力によるものではありませんでした。
寧ろ私は恵まれていたから、運が良かったから、ここまで辿り着くことができました。

中には理解のない環境の中で、本望を遂げられずにいる方もいらっしゃるでしょう。希望や望みを持つことすら諦めてしまっている方もいらっしゃるでしょう。
私は私の経験を振り返ることで、救いの手が十分に差し伸べられていない社会の現状に問題提起したいのです。

どうかこの話を、「病気とか家族とか環境なんて理由にして甘えだ、やればできるんだ」なんて使い方はしないでください。


なにひとつ疑わなかった幼少期

私の家族は、外から見れば典型的な仲の良い模範的な家族でした。長期休暇には家族旅行に行き、イベント毎に家族でお祝いする。両親は穏やかで、友人家族や隣人、幼稚園・学校関係者にも人当たりが良い。そして教育熱心。

しかしそれは、あくまで外へ向けた作り物の姿でした。実際には、私の家族は多くの問題を抱えていました。

※いま振り返れば、私の両親及び姉妹には、発達障害・愛着障害的傾向が強く現れていたような気がします。
マイルールへの拘りや執着心の強さ、思考の柔軟性の欠落、共感力及び良心の欠如など、挙げればキリがありません。

だけれども、幼い私にとっては家族が、両親がすべてでした。まるで神様、無条件に信頼する当然の対象でした。何故なら、幼い子供は親から捨てられたら生きていけないからです。

記憶がある限りでショックを受けた最初の出来事は、それは私が2歳か3歳のときでした。

一人遊びではしゃいでいたとき、風邪で寝込んでいた母が飛び起きてきて徐に私を引っ掴み引きずって、突き倒した挙句腹を踏みました。頭を打って痛くて、内臓が苦しくて怖くて、薄暗い廊下の冷んやりとした空気を感じながら、それはそれは驚きました。

それでも、その頃はまだましでした。次の日に、ごめんね、と言って泣きながら、ハグして謝ってもらえたから。ああ、私は愛されているんだ、と思いました。絶対的存在である親を謝らせてしまったことに、後ろめたささえ感じました。

5歳の時に、初めて自殺を考えました。何故なら母親から「お前はアスペだから、異常者なんだ。人の気持ちが分からないモンスターなんだ」と言われ、数時間にも及ぶ罵声を浴びたからです。

「アスペルガー」なんて知らなかったけれど、なんだか異端者・劣っている者の烙印を押されたことは理解できました。人と違うことに、ショックと絶望を覚えました。(後に定型発達であることが判明しましたが、それは私がやっと17歳になった後のことでした。)

このように罵声を浴びることは日常的でした。母の怒りの沸点がわかりませんでした。

母親の感情の変化を敏感に察して対応しないといけないから、自分の感情を押さえ込んで土下座して泣くことを我慢して何十回も謝らないといけないから、私は年相応以上に大人にならなければいけませんでした。
足音や話し声に繊細に反応するために、息を潜め体は無意識に強張りました。

※過緊張による体の強張り、それに伴う全身、特に肩と上腕の痛みに関してはいまだに後遺症として残っています。体が動かないせいでしつこく日常生活のジャマをされるものですから、全く酷いものです。

私には双子の姉妹がいますが、私と彼女の間には明確な差異をつけられて育てられました。

彼女は、それはそれは蝶よ花よと言った具合に可愛がられ、怒鳴られることもなく、全てを肯定され、何もかも褒めあげられ育てられました。
私には到底あり得ない扱いでした。

ですが、幼さ故に、そしてそれが当たり前過ぎた故に、姉妹差別に疑いを持つことはありませんでした。
無意識のうちに、私は人から好かれない、注目に値しない人間だと洗脳されていました。

あとから考えれば、むしろ私の方が社交的で言語能力も高く、勉学や芸術も上手くこなしていたような気がしますが、、彼女は昔からいまに至るまで、クラスに一人か二人いる、少し変わった子でした。まあそれは過去のことだから分かりませんね。


次回↓

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