![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/107003379/rectangle_large_type_2_898a12d3266628f6fdb356cfada48799.png?width=1200)
Photo by
yukasakura
富士山
お天気の良い日、私の母は「今日は富士山がよく見える」と言う。
冬は「空気が澄んでいるから山頂の雪までよく見える」と言う。
母が仕事へ向かうときにも、血糖値と闘うために散歩をするときにも、視界に富士山が見えると「あぁ、富士山がよく見える」と言う。
曇っている日は富士山がある方角を見て、
「今日は富士山が見えない」とも言う。
特段、母は富士山というモチーフが特段好きとも見受けられないし、何か富士山で特別な思い出があると言う話も聞いたことはない。
それこそ家の中では富士山の話題は一切ない。
それでも母は富士山が目に入ると「富士山だ」と言う。
富士山の何がそんなに母を惹きつけるのだろうか。
そんなことを思ったり思わなかったりする日々が続く中で、私は自分が発した一言に気づかされた。
目の前に広がる砂浜と広い地平線に「あー海だ」と呟いたのだ。
音階をつけたら、さぞ跳ねた明るい音がしただろう。
私は山に囲まれた故郷を持ち、海なし県で育ったため、海への耐性がない。
大好きだ、海と共に行きたい、と熱烈な愛情を持っているわけではないけれど、旅先で出会った海につい目が惹きつけられてしまう。
海が身近になかったものの性なのか。
母の「富士山」も、私の「海」も。
好きかどうかと言う話ではなく、その存在につい惹きつけられてしまう。
目の前にある風景は、物理的にその場にいる人にしか見ることのできないものなのだと、改めて気付かされる。