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おみおくり
義兄の葬儀が終わった。
8月病院帰りに帰宅路に迷い、日中症で救急搬送。
9月脳腫瘍再発確認
10月自殺未遂、入院、脳腫瘍摘出手術
11月−1月リハビリ入院
1月24日-2月4日在宅看護
2月4日-2月9日緩和ケア病棟
2月15日、16日通夜、告別式
人生の最終章を半年で、これまでに無いほどたくさんのイベントをこなして、親族に存在感を示して亡くなった。
姉と結婚して40年。とても静かでシャイな義兄は、年始の家族イベントで共に過ごすくらいで、ほとんど会うことのない存在だった。
姉とは、常日頃ワイワイと、とんでも家族の事件を共有し、親族のあれこれを切り抜けてきた。
姉が外に出ている分、義兄は家を守っていた。フルタイムで働く姉の代わりに、定年後主夫となり、姪の介護を一手に担い、家庭を堅固していた。
姪にヘルパーをつけることも嫌がり、姉が帰るまでは姪をひとりで看ていた。
8年前に大腸癌となり、その後、転移が肺、脳に及び、入退院を繰り返しながらも、姪の介護を生きがいにリハビリに励み、主夫に返り咲いた。
義兄は寡黙な人だから、姉との結婚生活40年の間でも、私と有効な会話は多分12時間程度だったと思う。話しかけても会話が続くことはなかった。
結婚当初は、新しくできた妹として可愛がろうとしてくれていたように思う。
高校の時誕生日にベッドカバーをもらったことを覚えている。
ニンニクの下味をつけないとんかつを褒めてくれたこともある。
親族で旅行に行ったこともあるが、父や私の旦那とは会話をしていたが、私とはあまり会話をすることはなかった。
姪が生まれて、2歳くらいで重度知的障害と診断された。姉が障害と向き合い、早期療育へと育児の舵を切った時、義兄は娘の障害をなかなか認めきれなかった。
当時高校生だった私は、姉について、早期療養施設の面接に同行するなど、姉の話し相手としてよく行動を共にしていた。
姉は、話を聞いてくれない夫より、話を聞き、意見を言う私と、共に行動するようになった。
義兄にとっては、時間をかけて話し合い、共に娘の障害を乗り越える道があったかもしれないが、姉は、目の前に問題があると解決に向けてブルドーザーのように、どんどんスピーディーに解決していくタイプ。ゆっくりと、じっくりと、足場を固めながら問題解決を図るタイプではない。
私も、問題解決に当たって、情報収集し意思決定が早く、実験的に試して効果をすぐ得たい、トライアンドエラータイプなので姉妹になると、あらゆることが考え無しにどんどん進んでしまう。後から考えると「拙速だった」と、とんでも家族の伝説が増える・・・そんなとんでも姉妹に、義兄は無抵抗なまま、決定事項の全てを事後承諾するような形になった。
当時は、姉の力になりたいと必死な高校生だったが、今思うと、身近な私の存在が、夫婦の向き合う機会を奪ってしまったのかもしれないと漠然と感じている。義兄との心の距離が広がったのもその辺りからだったように思う。
姪が大きくなると、姉の友好範囲が障害児のママ共になり、相談相手が増えていった。姉は猪突猛進型で、誰かと一緒に何かをするのが好きなので、常に寄り添う友がいる。賑やかなのが好きなので、自分でイベントをどんどん仕掛け、重度障害の娘を、いろんな人と共に育てて行った。
義兄は、姉のお祭り人生を横目に見ながら、その輪に入る事はなく、その間、ひたすら仕事で家計を支えていった。
姪は重度の知的障害から、歩行困難な症状が進行し、30代になってSENDAと言う希少疾患であることが判明した。
義兄は定年後、主夫になり、晩年は家事、寝たきりの姪の介護が中心の生活となった。家と家族が好きで、それ以外の者が入ってくるのを好まなかった。行けば、姉が義兄と私たちの間で気を遣い、ストレスになるので、義兄が家庭に入るようになると、姉宅への出入りを控えるようになった。
姉とは、週に一度、一人暮らしの母の所で昼食を共にし、姪の介護から一時離れる場として他愛のない会話をするのが日常だった。
姉は、フルタイムの仕事を終え、帰宅すると姪の介護にあたっていた。姪の呼吸困難がひどくなり、夜も眠れぬ日々が続いていた。
昨年、姉は姪の衰弱がひどくなって来たと「そろそろ会いにきた方が良い」と言うようになったので、できるだけ姉宅に顔を出すようにした。
義兄は癌を患って、体調も悪いためか、私たちが訪問すると自室にこもって出て来ない。姉宅に行くと、姉は喜ぶが義兄は喜ばない。
そんな感じで、ほとんど義兄とは交流がないまま長い年月がたっていた。
それが、10月の自殺未遂から、急激に状況が変わった。
姪の気管切開手術と義兄の開頭手術、リハビリが重なり、姉は姪と一緒に入院。義兄の見舞いは私に託された。癌は全身転移で末期。いつ病状が変わるかわからないと言われた。
それまでろくに話したことのない義兄に、週1回会いに行って、洗濯物を預かりながら様子を見る。お見舞いには旦那と一緒に行くことにした。
旦那同士、男同士で旦那は私より、義兄と会話をしていた。
リハビリ病院に行くと、旦那の顔を見て義兄は喜んで迎えた。姉と来た時とは対応が明らかに違う。義兄にとっては、マスオさん状態の旦那とは仲間意識があったようだ。
脳の術後、高次機能障害となった義兄は、リハビリ病院では元気で朗らかだった。ほとんど話もしなかった私に「ありがとう」「悪いね」と言葉をかけ、ある時は看護師さんを呼び止め私を紹介した。「これ、娘!」と・・・。
看護師さんも我々もフリーズした「?????」
看護師さんが「義妹さんですよね?」と言うと「・・・・ああ、そう!」と答える。一見普通に会話しているが、どこまで意識があるのかは最後までわからなかった。
義兄は、姪の術後、姉が見舞いに行くと「家に帰せ!」と無理難題を姉に突きつけ、時には声を荒げ、暴れるようになった。
姪の介護と義兄の受け入れ準備で目一杯の姉は、そこに優しく対応できる余裕はなかった。それでも、最後になるかもしれない帰宅の願いを聞いてあげたいと、在宅看取りの準備をして迎え入れた。
自宅では、姪のヘルパー、義兄のヘルパーと訪問看護、在宅診療等が入ったが、帰宅後義兄は、1週間もたたないうちに病状が急激に悪化した。痛みのコントロールが家庭医療の限界を超えていた。
緩和ケア病棟に入院したが、その夜から混乱して、食事も取れず、ほとんど寝たきり状態になった。
看取りの日の事は、別の日記に記したが、私はずっと姉といた。
そばにいながら、もしかして、私は義兄にとって最後まで邪魔者になっているかも・・・と言う想いを拭えなかった。
義兄は家族が大好きで、姉が大好きだったのだと思う。
9つ年下の嫁。情は熱いが、口の悪い姉を丸ごと可愛いと思っていたのではないだろうか。
でも、寡黙な昭和男児、その想いを伝えることは無かった。
遺体を前に「おにいさんは、お姉さんが好きだったんだよ。」と言うと姉は、
「だったらそれを示せ!」とあまり認めたくなさそうだった。
葬儀も、色々あった。またの機会に記すこともあるかもしれない。
9日に亡くなって、15日通夜、16日告別式と間が空いた。
義兄はお骨になって、大好きな我が家に帰ってきた。
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何よりも家族を大切にしきった、一人の人が逝った。
残された家族が幸せに暮らすことを願っていると思う。
新たなステージとなる姉の暮らしを、より良いものになるよう。
妹として、共に歩んで行こうと思う。