《乳屋さん、今日終わる ②》
2023年5月31日の営業をもって、弊社は事業を閉じることにした。これまでのご愛顧をありがとうございました。
私が今の会社へ入社する前、つまり、何もかも上手くいかずに求職していたタイミングで実家の事業を引き継ごうかと考えたこともあった。
母と妻にもふんわりと相談はしてみたが、そのどちらからも快い返答は得られなかった。それは、今さら都合よく私がUターンしたとしても、人生を謳歌することができないことをどちらも知っているからだ。
多分、それは正しい。
地元の香川から大阪に出てきて27年になるが、大阪の方が自分の性格からして水が合っている。めちゃ楽しい。今でも予想のつかないことがどんどん起きる。一燈照隅を良しとする自分としては、悲しいかな今となって香川にその機会があることをイメージできない。
終わりかけた阿守家は、息を吹き返す
事業のスタートがどういった雰囲気で行われたのか全然思い出せないが、父の牛乳配達は始まったようだ。家に牛乳を保管するための大きな冷蔵庫がやってきた。長年、母に言われるまで気づきもしなかったことだが、この当時、このような大きな冷蔵庫が買える金など無かったはずだった。
近年になって、母が言うには「多分、あのオンナがお父さんのためにお金を出したと思うわ」とのことだ。その後、母は「それについては感謝しとる。好かんけど」と言葉を付け加えた。どういう意味なのかは、推して知るべしであろう。
果たして、乳屋は軌道に乗った。
競合他社もおらず、いたとしても販路拡大に積極的ではなく、当時はコンビニもなかったという状況も味方しただろうが、何より40代の父のモチベーションが高かった。父が生来の社交好きで冗談好きだったことも販路拡大の大きな要因であったと思われる。
今でもそれについて記憶に残る父のエピソードがある、私が地元のバーでアルバイトをしていたときのことだ。場末のバーで働く私のことが心配になって父は様子見に来たのであろうが、いつの間にか、バーにいた見知らぬ客から牛乳配達の契約を取りつけていたのには驚いた。
水を得た魚とはこういうことかと今になって改めて思う。
事業スタート時に、詫間町(現:三豊市)のごく一部だった配達区域は、気が付けば【詫間町】【三野町】【高瀬町】【豊中町】【仁尾町】の広域へと展開することとなった。そしてまた、父は明治乳業の販売拡張員である年配の男性とウマが合ったようで、販路は拡大の一歩を辿った。
販売拡張スタッフの男性の訃報を聞いたとき、普段は見せることのない父の落胆ぶりは相当なものだったと、母は当時のことを教えてくれた。
子供だった私の薄い記憶では、とても柔和なお爺さんという印象だった。礼儀正しく、謙虚で、そして功を誇らず、田舎の風景とよく合う穏やかで何でも相談したくなる目をしていた。
さて、阿守の牛乳屋は忙しくなってきた。
父は誰かを雇うということをせず(正確には幾度かパート従業員を雇ってはいたが、それは一時的で散発的なものだった)、単身で営業と販売と事務処理をこなしていた。一般的な牛乳配達における1日のルーティンを私は知らないが、最盛期頃の父は23時から配達に行き昼頃に帰ってきた。そして昼過ぎからまた夕方まで配達に行っていた。
家族の誰も父の仕事を手伝おうともしなかった。どうしてなのかわからないが、なんだか他人事であり興味がなかったのである。つまり、気がつけば生活の困窮から解放されていたということなんだろうと、今さらながら思う。
父のモチベーションとは何だったのか?
私自身のいろいろな記憶をたぐり寄せてみた結論として『金』だったように思う。この結論について、父には誠に申し訳ないことながら絶対的にそうであったであろうと不詳の息子は考察するわけである。
父の乳への超人的なモチベーションの根源は『金』であったろうと一旦、結論付ける。このような結論付けをしてしまったことを父には、あの世で詫びよう。
配達をする以上は、月末毎に集金があるのだが、集金に出掛ける際に見せる父の嬉々とした顔は、天候に恵まれた年のカベルネを収穫するブドウ農家のそれと同じであった。集金から戻ってきたときは、金でカバンがはち切れんばかりになり、さらに嬉しそうな顔で金を数えるのであった。
あまりに嬉しいのか、自分で数えるだけでは飽き足らず、わざわざ私や妹に数えさせたりして父は恍惚に染まっていた。私は父のそうした行為の1つ1つが卑しく本当にイヤだった。薄汚く感じていた。父が子供にさえ向けてくる自己の承認欲求が気色悪かったのだ。妹なら、なおさらだろうと思う。
母は、そんな金に狂奔する父を軽蔑しながらも大目に見ていたと思う。なにせ母自身が賭けた結果なのだから。
まず、家電が全て刷新されていった。そこから車をあれこれ買い、何に利用するのか全くわからない怪しげな黒塗りのマイクロバスを買い、クルーザーを買い、土地を買い、鉄道を走らせ、日本刀を収集し、旧帝国海軍の遺品を収集しだした。
とにかく父は幼い頃から貧しい家庭環境で育ったことで、我慢をずっと強いられてきた人生であった。本人でも認めたくないほどの痛烈なコンプレックスを抱えていたのかも知れない。
しかしこの時期になって、ようやく自分の好きなこと、やりたかったことができるようになったのだ。我が世の春であったのではないか。本人にとって春が長かったのか短かったのか私は知らない。何故なら私は大阪に出たし、そのことについて父からなんらの感想も聞いていないからだ。
そして、ある日、自室で父は静かに死んでいた。
原因は長く患っていた糖尿病による何かであった。
父が海外へ行ったことあるのかどうか、私は知らない。
つづく
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