まるで定食屋でひれかつ膳が出てくるまでの暇つぶしに、手の中でロングピースの空きソフトケースを握りつぶしながら並べ立てる雑談のようななにか
「あなたがいま住んでいる町の中で、住人たちを運転がうまい順から並べていくとする。さてあなたは運転が上手い部類だろうか、下手な部類だろうか」
これは有名な問いかけだから、もしかしたら聞いたことがある人もいるかもしれない。多くの人々はこのような質問を投げかけられたとしたら、さして迷うことなく「上手い部類に入ると思う」と答える、というのがこの話の主題だ。二分された住人たちのうち、【運転がうまい方の住人】は50%しかいないというのに。人は容易に自分自身を「より良い半分」だとうぬぼれる。
1/2という可能性は、投機するにはあまりにもリスクが高すぎるし、尻込みするにはあまりにも確率が高すぎる。そういう理由もあって、多くのひとびとは「いや、毎日平穏無事に通勤できているからね」と考え、臆面もなく自分をより運転がうまい方の人間だと思いこむ。 平成29年中の交通事故発生件数は47万2165件、同年の運転免許保有者数は 約8220万6000人。8220万-47万という莫大な数字は、「我々みたいに運転がうまい方の人間」という幻想をたやすく打ち砕いてくれるはずだ。
ところで。悪魔のような存在が「世界の人間どもを歴史ないしは歴史学について十分によく理解している順に並べていくとする。さあ、きみは【より良い半分】と【より悪い半分】のどちらだろう?」と問うてきたとしたら。わたしはなにせ歴史学ってものが好きだから、そういう詮無く邪悪な質問文へと書き換えた上で、思考実験を行いたくなってしまう。
不幸にも、歴史学というディシプリンを通って修士号なんてものを取ってしまった自分のような人間は、たとえ先程のようなたとえ話を思い起こしたとしても自分がより良い半ばであるとうぬぼれてしまう。「範囲が日本であれ、アジア圏であれ、ユーラシアでも純粋な世界規模であっても」だなんて、そんなたいそれたことを考えてしまうのだ。他の多くの人々もまた、教育課程の中で世界史・各国史ってものを習ってきているというのに。
このような、私に類似する種の【歴史学徒】に比べれば、一般的な【歴史愛好家】っていうものはより控えめでより大胆だ。彼ら彼女らは非常に奥ゆかしい性格らしく謙遜というものを実践する。本音か、建前か、それともうぬぼれからか自らを「より悪い半ば」に設定する。文字が読めるか認識できるかしているのに、学校にも通えたというのに、気が向けば本を買えるような経済状況・社会情勢・文化的環境にあるというのに。
このように議論を展開させていったけれども、本文の趣旨が「より良い半ばを目指すべきだ」とかいうべき論を並べ立てるものなのだとか、「より悪い半ばを自認することになんの意味があるのか」などと弾劾する目的があるのだろう、だとか。そういうふうに疑われてしまうと弱ってしまう。
言うまでもなく、「あるスキル・技能の熟達度によって【より良い半ば】と【より悪い半ば】とで二分する」なんてものは、ナンセンスな仮定でしかないわけだから。する必要がないというか、超越者でもなければ二分できないたぐいの組分けだ。意味のない落書きでしかない本noteだけれども、そうしたたぐいのナンセンスな文章を提出するような悪趣味は私にもありゃあしないのだ。
「そんなことよりも、どうすれば事故が減らせるのだろうか。どうすれば事故による損害というものを和らげることができるのだろうか」
最初のたとえ話と、歴史に焦点を合わせたほうのたとえ話とが向かうべき先は、たぶんこういった疑問なのではないだろうか。
たとえお上から運転免許を許可されなかった人であっても、自動車というものが道具でしかないかぎりは好き勝手に走らせることができるわけである、違法だが。それと比べると、歴史ってものは恐ろしいもので、無免許歴史ってものが合法のうえで誰にだって許されている、許されてしまっている。私もまた無免許で歴史ってる一員である(ちなみに教員免許も運転免許も医師免許さえも持っていない、みんなと同じようにヤブなのだ)
たとえ私やあなたが、自分を【より良い半ば】に設定するにせよ、【より悪い半ば】に設定するにせよ。それって重要なことじゃあないんじゃないかしらん。事故ってものをなくし、たとえ発生したとしても、それが重大なものにならないよう和らげるってことこそが重要なのではないだろうか。
3月。我々はひどい事故を目の当たりにした。これが【見通しの悪い道路で起きた交通事故】であったなら、まず間違いなく道路には「飛び出し注意」と書かれた看板が立てられたり、スピード違反の取り締まりを行うべく警察官が見張ったりするだろう。たとえ世の人間の大半が【自分は運転が上手い】などとうぬぼれていようとも、事故そのものを起こさせないように環境整備が行われる。
では、我々の言説っていうものはどうなのだろう? だれが、なにが、眠りこけたドライバーを目覚めさせてくれるのだろうか。再度舌打ちを鳴らしておく。しくじった自分のために、しでかした社会のために。明日のお菓子のためクッキーを焼くかのように、歴史がそういう気安い気休めであるだなんて、思い違いなんかしたりする余地などもはやないはずだろうけれども。
つまるところ、この文章で述べたり示唆しようとしているところのものは、「われわれは【より良い半ば】であるかどうか」なんてものではなく「きちんと運転することのなんて難しいことであるか」というところに主眼を置いているわけで。「60キロ制限のエリアで車を時速60キロで走らせる」ということが正しい選択肢であるか否かが問われていて、「答えはNO、エリアと書かれているだけで車道と歩道は分けられておらず、歩道を60キロで走行してはいけないから」とかいうひっかけ問題にすらならない悪問がここでは提示されているのだと、適切に認識してもらいたいのですよ、世界には。
歴史っていうものを「正しい知識とそうでないもの」の二分法で成り立っているとかいう小学生じみた理解でもって認識することをやめること、これはもう当然の話だと理解してもらいたい。「時空間的変遷というものを知覚しうる存在であればだれもが歴史をいじくれる」という自明の前提から─「暗黒時代としての中世というものを否定する」も「ケネディは地底リザード人の陰謀によって暗殺されたと宣う」も、どちらも同じ『歴史事象の知的操作』であるのだと、まずここからはじめてみたらどうだろうかね。
正しくなくとも、そこにはエネルギーが生じている。いやむしろ、「正しいものごと」が持ちうるはずのエネルギーと比べたら、地底リザード人種の陰謀なんてものは愉快さという点においてより強大なのだろう。
そのうえで忘れてはならないこととして。「正しい」からといって、それが正しいとは限らない。世人が言うところの「文脈をちゃんと読めば、けして差別的な意図などなかったということが明白だろう」的エトセトラだ。
われわれを取り巻く世界は(プレーヤーたるわれわれがロクデナシである以上不可避的に)ロクデナシであるから、われわれの言葉はしばしば「どうしようもない過ち」にしかなりえないという状況に追い込まれる。「文脈をちゃんと読む」だなんて。文脈を適切に読めて文脈に応じて(流されて、と言い換えてもいい。文脈に流されて物を言える人間でさえ数少ないのだから)言説を展開できるひとが、どれだけいるだろう。
となれば「より悪い半ば」であると自身を設定するのは、マズい方法であるとも言えないのだろうね。じゃあどうしてこんなにも、「より悪い半ば」を自認する人々のことを気味悪く、邪悪な存在であると思ってしまうのだろう、私は。やっぱりそれは、しくじっているからなんだろう、そうした人々の多くが/もまたしくじってしまっている。
「自分が経済合理性のもとに行動している」だなんて自惚れないようにするということは、生活慣習を改めるうえで重要かつ必要な要件なんだろう。けれどそうした改めが「ぼくは素人だからまちがえます」という逃げ道しか用意できないというのなら、あまりにも貧弱で、あまりにも罪深い。そう感じてしまうのだけれども。
興味深いもので、我々の言説ってものには道交法的な制約がないから、飲酒運転がブタ箱にぶちこまれるようなかたちでは「あやまちの多い語り」の罪をつぐなうことができないわけだ。ある人々はそれを「良心の自由」だと誇るけれども、そういった人々の多くが考える「語りの軌道修正」ってものの実態は、たとえば「開き直る」だとか、たとえば「ばれないように必死に祈る」だとか、チープであるどころか実際性のない対応策であるように思われてしかたない。
実際性、たぶんこの雑談の主題は実際性ということばに結実し、実際性というものの難しさに直面して終わるんだろう、ことここに至ってようやく分かってきたぞ、私にも。(なにせ定食が出てくるまでの雑談でしかないのだから、もとより見切り発車だったわけだ)
どれだけその言葉が歴史的事実に忠実であったとして、「正しい事柄」を語ろうともそれはそのまま実際性に着地することはない。同様に、あやまちを改めようとして反省したって、反省そのものが実際性を担保するわけではないってことは、現況目下繰り広げられているオリンピックの諸問題においても明白だろう。「反省しても許されないというのは、これはもう別個のいじめみたいなものじゃないか」的語りをこないだ見かけたけれども、「語りに実際性をエンチャントする」っていう実践を怠っている場合アリバイ作りにさえ成功していないように思うのだけれども、君は如何?
たとえ我々が、「暗黒時代としての中世を否定する」タイプのバーサーカーであろうとも、「ケネディ暗殺を地底リザード人による陰謀だと確信している」タイプのバーサーカーであろうとも、語るべき言葉がどういったかたちであれ語りかけは人の耳に届かなければ無力だ。「人に聞かせる」という事象がいくらかのデシベルさえあれば実現する物理現象でしかないと思いこんでしまうのは、人間ってものの注意力散漫さを過小評価してしまっていると言わざるを得ないだろう。もしくは自らの声帯への自信過剰、か。ぼくらはぼくらが思っているよりも滑舌も悪けりゃ声も悪い。
実際性のある語りは難しい、あまりにも当然の話で、雑談の内容であったとしてもあまりにもな陳腐さで呆れてしまうが。けれども、どうであれ私達はなにかしら意見を表明する必要があるんだろう、語りは語らなければ語られない。きみが「より悪い半ば」であったとしても、きみはとっくのとうに車へ乗り込んでしまっている。安全運転は避けられない義務なのだから、ちゃんと運転すべきなのだ。それがいやなら自動運転技術を開発すべきだね、誰一人として「語りの自動運転技術」ってものを真剣には考えちゃいないようだけれども。それはともかくとして。
ほらご覧、わたしのTwitterのフォロワーに正木慶史という人がいるのだけれども。彼か彼女かは2ヶ月近く物を言わなかった時期がある。「Twitter周辺」というか細く実際性のある言説空間に影響を与えるには、無言というものは無意味しか生み出さない。「なにもないところからはなにもうまれない」とはリア王の言葉だけれども、コーディリアだってなにがしか言えば死なずに済んだろう。「なにもしなければ過たない」だなんて、無為もまた過ちになるというのにね。