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アマチュア哲学を語らう夜に向けての往復書簡 第一便 柿内→阿部

2025年2月14日に当店・学術バーQ(東京・上野)で開催予定の対談イベント「アマチュア哲学を語らう夜」。この会に向けて、メインスピーカーの柿内さん・阿部さんお二人に「往復書簡」の形で文章を書いていただくこととなりました。アマチュアとして世界を楽しむには?〈良きアマチュアイズム〉とは何か?〈アマチュア〉なるものをめぐる、お二人のやりとりをお楽しみください。
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学術バーQのマガジン『柿内正午 × 阿部廣二 往復書簡企画:2025.2.14「アマチュア哲学を語らう夜」に向けて』

あべさん

 こんにちは。

 今年のバレンタインはイベントをご一緒できるとのことで、楽しみです。

 あべさんとは高田馬場のバー、HANABI でお会いしました。マスターの豆腐さんが、そこでの僕らのおしゃべりを聞いて、「なんかやれそう」とお声がけしていただきました。会場は、HANABIではなく、豆腐さんの経営する御徒町の学術バーQとのことです。

 飲み屋での交友というのは面白いですね。僕は豆腐さんが何者なのかもよくわかっていません。あべさんが「阿部さん」なのか「安倍さん」なのか、あるいはそれ以外の感じの組み合わせなのか、とっさにはわからず、わからないということをいったんそのまま残しておこうと思って宛名をひらがなで書いてみました。

 僕は飲み屋において、よくわからないままで、わかっているように誤魔化しながら人と仲よくおしゃべりをしています。

 ふだんは会社員なのですが、僕との打ち合わせは中国語の部屋とほとんど見分けがつかないはずです。よくわかんないまま任意の言葉をタイミングよく発話しているだけという感じがします。公私ともに、そうなのかもしれない。「わかってないことをわかってるように誤魔化す」というのは、生成AIの応答の仕方です。

 けれども考えてみると、人間の日常の雑談や読み書きに、共感や理解は要らないともいえる。文法構造さえ把握していれば、話されていることそれ自体の文脈や語義や情感をさっぱり理解できていなくても、概ね間違っていない要約と応答はできてしまうからです。

 わかっていないことをわかっていないままわかっているかのように振る舞えてしまう。だからこそ、僕は言語コミュニケーションが好きです。

 人間、変だし難しすぎてだいたいわけわかんない。それでも、言語のやり取りの上では、わかってるかのようなコミュニケーションが成立することを少なからず期待できる。これはかなり画期的で便利なことです。

 言語コミュニケーションにおいて、その成否はほとんど文法規則で定まるとして、やり取りのアクターである個体ごとの自我のようなものは不要というか、わかることを阻むノイズないし邪魔者にしかならない。わからないのに「わかったように受け答えできる=わかる」ようになるためには、いっそないほうがいいくらい。だから、たぶんAIのほうが言語を使用する場合に関してはコミュ力が高い。言葉の操作において円滑に誤魔化せる部分というのはどこか非人間的であるはずだし、多少なりともアカデミックな読み書きについては、そういうものであるべきでしょう。

 とはいえ、人一般は正確な読み書きのために生きているのでもない。AIのようにスマートにわかってるように誤魔化せない部分、駄々っ子のようなわかってあげたくなさにこそ、人間の旨味——自我と言ってもいい——がある。

 いきなりでかい話に飛びますが、資本主義というのがここまで強固に機能しているのは、人間同士がコミュニケーションを成立させるためにお互いを非人間化することに対する躊躇いや違和感をかなりきれいに除去してくれる仕組みだからなのかもしれない。

 僕は会社の労働とは無関係に、文筆活動も行っているのですが、そのさいは「町でいちばんの素人」を自負しています。ここでいう「素人」とは、精緻な記述に徹することのできないこの心身のままならなさを漂白しきらないということを表しています。これは前述の資本主義へのささやかな抵抗の戦術でもあります。

 しかし非専門家であることにひらきなおり、独我論に陥ることも避けたい。不格好で不完全であれ、読み書きという行為について最低限の職人意識をもつぞという気分を「町でいちばん」に託しています。

 ここまで書いたあと、阿部さんの「虫屋の採集技法:「野生のナヴィゲーション」としての昆虫採集」という論文を読みました。そのため、まず阿部さんの漢字に確信が持てました。読書人としては、馴染みのない昆虫採集の現場で行われている、当人たちからすれば言葉にするまでもない数々の判断や技法の内実について、ラトゥールのアクターネットワーク理論を駆使して詳らかにしていくさまにわくわくしました。

 「素人」としての僕は、論旨とは関係のないところで立ち止まり、脱線していきます。たとえば、虫屋のひとたちが「一般の方」つまり虫屋以外の人の目を気にして、採集のフィールドを「採集するべきではない場所」へと読み替えるという箇所です。ここで、「一般の人の目」をアクターとして導入された連関の中で、虫屋の人らが感じたかもしれない羞恥心のようなものに興味が湧いたのです。

 ある環境を虫取りのフィールドとして探索している最中、ふと「一般の人の目」と遭遇する。その途端、今いるその場所は仕事場から公園へと引き戻される。自分たちの行なっていた空間の翻訳の特殊性が、「一般の方」の登場ひとつで暴き立てられてしまう。

 虫屋からみた場合、「一般の方」も採集の可否を左右するひとつのアクターでしかないかもしれません。しかし、「一般の方」はただいるだけで、虫屋を、じぶんたちと同質性を持つ「一般の方」へと変質させうる。

 ある目的のもと最適化された思考法や振る舞いが、「一般の方」の連関の中へ引き戻されていく時、そこにはある種の気まずさ、気恥ずかしさがあるように思います。

 僕にとって「素人」とは、ある特殊な技術の鍛錬への好ましい印象の裏側につねに張り付いている、このような恥ずかしさの自覚のような気がしています。賃労働でも、読み書きでも、何かプロフェッショナルな熟練に接近しているとき、ふと感じるのです。いまのこの言動を、なんも関係のない誰かが見たら奇異に映るだけだろうな、と。そういうとき、なにやってんだろ、と恥ずかしくなります。

 思いつくままに、とりとめもない話をだらだら書いてしまいました。往復書簡ですから、なにかしら問いかけなどで締めておいた方がいいのかもしれませんが、飲み屋の無責任な会話よろしく、ここはこのまま投げっぱなしにしておきたいと思います。お返事、楽しみにしています。

柿内

▼本企画の登場人物

柿内正午(かきない・しょうご)
ただの会社員。「町でいちばんの素人」を理念とし、いち生活者としての非専門的な読み書きによる雑駁な活動を行なっている。著書に『プルーストを読む生活』、『会社員の哲学』など。

阿部廣二(あべ・こうじ)
東京都立大学特任助教。昆虫採集を行う人々(虫屋)が虫を採集するプロセスについて、認知科学の観点から研究しています。また、会話や身振り、伝承など、人々が日常的に行っている実践に広く関心があります。

▼2025年2月14日のトークイベント「アマチュアの哲学を語らう夜:〈素人〉の良きあり方を考える」の会場はこちら
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