失う。損失たる事実。
23,000円を突然失った。
正確には23,100円を。
久しぶりにメガネを変えようと思い、メガネ屋さんに赴いた。今までのメガネでも差し支えなかったが、もう何年も共にしており、そろそろ体にもガタがきているころであった。ボーナスも入ったし(入ってなくとも、であるが)ちょうど変えるか、と重い腰をあげ、さらに重い扉を開けた。
別にメガネにおいてこだわりはなし。似合っていれば何でも良い。しかしフレームに万越えはちょっと気が引ける。そう思い手頃な値段のフレームを手にしメガネ店員Zの元へかけていく。
初心者マークをつけた店員Zは、手を振るわせながら事務的な確認をする。疲れているのかバランス感覚が良くないのか、しゃがんでいる姿がかなり不安定で心配になる。ここは社会人の先輩として威勢の良いところを見せなければ。ハキハキと腹から声を出し受け答えをしてみせた。そんな自身の威勢に対して、よし、今から買うぞ、新しい自分になるぞ、と背筋も伸びた。
質問を終えた後は視力検査になるが、それまで時間が空いたので、隣の鞄屋さんに入る。なんでも閉店セールなようで、全ての商品3,900円(税抜)であった。母が持っていたのは金に輝く小鞄(本当に金ピカ)。店員がフロア全体に響く声で
「それ!この店で1番高いんですよ!今見るとうるさいですけど!外で見れば可愛いんで!」
と言い放ち去っていった。忙しいものだ。母はそれを買っていた。私もちいこい鞄を買ってほくほくしていた。
そんなこんなで視力検査の時間になった。視力検査はもう自動音声でやる時代らしい。高橋名人もびっくりの高速連打ですぐに終わらせる。赤と緑のどちらがはっきり見えるかなんて、何度やってもよくわからん。斜め配置でどっちが見えやすいですかと聞かれてもどの方向に矢印を倒せばいいかわからん。結局自動音声の後に店員が見え方を聞く必要があるのか。様々なことを思いながら視力検査を終える。やはり度が強いよう。レンズを薄くするようお願いした。
会計待ちの最中、仲良くしてくださっている先輩が胃腸風邪になったようで労りのメッセージを作成しているところで私の名前を呼ばれていることに気づいた。
嬉々としてレジにかけていく。もうすぐ新しいメガネとご対面だ。
すると、店員が放った。
『23,000円になります』
ちょっと待ってくれ。
私は1万もかからないメガネを選んだはずでは。
耳を疑った。現実なのか?はたまた聞き間違えか?反応がなかった私に店員がもう一度放つ。
『23,000円です。現金になさいますか?』
そんなに現金持ってねぇよ。
こっちは買い物帰りだよ。
見ろよ、この両手の紙袋の数を。
しかし、もう引き下がれない段階にいた。出番か、とひょっこり出ていた福沢諭吉1人では歯が立たない。仕方がないのでクレジットカードで対抗する。
しかし動揺しすぎて決済が済んでいないのにカードを引き抜き二度手間になってしまった。謝罪をし、慌てて差し直す。
まさか、こんなに、だとは。
違うんだ。
23,000円が出せない、というわけではない。
メガネ屋さんに対して高すぎるぞ、とただ文句を言いたいわけではない。
突然、特にこだわりもなく、特別気に入ったわけでもないものに対して23,000円も払う価値を見出せないまま取引が終了してしまったことに酷く落胆しているだけだ。
ケチとか、貧乏とか、そういう話ではない。それとは断じて違うことだけは、わかってほしい。
祖母のメガネはブランドもので30,000円ほどらしい。コレと今回の件は同じ話ではない。30,000円払おうとして払う30,000円の価値と、急に提示された23,000円の価値は違うではないか。なんというか、心づもりとか、今後の予定とか。
23,000円あれば何を買えただろう、という妄想が止まらない。ドブに捨てたわけじゃない。いいんだ。いいんだと思うことで自分を落ち着かせる。落ち着けるわけがない。それからの記憶がほぼない。
度が強すぎたためにレンズの在庫がなく、1週間後にまた店まで取りに行かなければならず、23,000円をまた思い出してしまう。レンズさえあれば今日だけで済んだのに。やはり目は良いに限る。
母から
「ここから歩いて帰ったら?2万3000歩くらい。」
としょうもない煽りを受け、私は涙を禁じ得なかった。