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ふたつ目の椅子

 今日、椅子を買った。リビングの食卓用のものだ。丸い座面に縦に7本の骨組みがあって、それが背もたれになっている。17世紀や18世紀のヨーロッパの庶民の家にありそうなデザインで、「ウィンザーチェア」というらしい。ともかく、我が家では二つ目のウィンザーチェアだ。

 遠距離恋愛をはじめたとき、あたしは恋人と一つの約束をした。
 あなたがあたしと一緒に東京で暮らすことに決まったら、そのときは新しいあなた用の椅子を買いましょう。それまではこの家にもう一つ椅子を置くのは絶対いやよ。だって、座る人のいない椅子を毎日毎日見なければならないあたしの身にもなってちょうだい。と、こんなあんばいに。

 恋人はちょっと不満そうにしながら、頷いた。
 その後の(ほぼ)1年間のうち、恋人は24回も上京してきたので、彼用の椅子があってもよかったのかもしれないと、今となっては思う。
 しかしあたしは、頑として彼用の椅子を買わなかった。その実、その椅子が愛情の遺物になってしまうよりも、単に無駄になるのが嫌だな、と思っていたのだった。

 椅子は、その人の価値観や生活をよく表すものだ。たくさんの人に囲まれたい人は大小さまざまな椅子を家におくだろうし、孤独を愛する人は多くの椅子を求めることがない。あたしもまた、椅子の数は最小限でいいと思っている。あたしの椅子と恋人の椅子。つまり、人生における必要最低限。

 恋人の転職が決まったのは秋も深まったころだった。はじめはからっきしだった(それでもめげずに面接に挑み続けた)のに、そのころには破竹の勢いで内定通知が続いた。
 あたしたちは、いそいそと新しい家を探して各々引越業者をきめ、そして今日最後に椅子を買った。気が付けば、あたしたちの2人暮らしはもう目の前だ。椅子はあたしから彼へのお祝いのプレゼントにするつもりだ。

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