【物語】モノクロームの誓い #1
あ、やっちゃった。だが、もう遅かった。手から滑り落ちたカフェラテのプラスティックカップは中身を盛大にぶちまけ、テーブルの上に広げられた紙面をことごとく濡らした。カシャーン、という乾いたカップの落下音だけが虚しく響き渡る。
「ご、ごめんなさい…!!大丈夫ですか?!」
「………」
席に座っていた女性は高校生だろうか。私とそこまで歳が違わないように見える。カフェ店内だというのに、紫のリボンが結ばれた麦わら帽子を被っている。
慌ててポケットからハンカチを取り出し、水分でシワシワになった紙の束の上に置きなんとか拭き取ろうとした。でも、茶色いシミは取れそうにないし、最悪なことに文字がどんどんかすんでいってほとんど識別できない。マズイ、マズイ、マズイ…。
「ほ、本当に申し訳ないです…。私の不注意で、こんなことになってしまって…。」
「…分の………なのに………こんなんじゃ……もう…………できない…」
女性はそうぶつぶつと呟くや否やガバと紙束を胸に抱えて、脇目も振らず勢いよくカフェを飛び出してしまった。
「あ!待ってください、何かお詫び…」
そう叫んだ言葉は虚しく、カウベルの大きな音にかき消されてしまった。追いかけようと外に出たものの、先ほどの風貌は見当たらなかった。金曜日の夜、私は盛大なミスを犯してしまった。完全な失態だ。それも、元通りにできない何かを、私は確かに壊してしまったんだ。そう悟った心の戸口には冷たい風が吹き抜けている。
◆◆◆
翌日、私は鉛みたいな重い足取りで、行きつけのカフェに向かった。そう、失態を犯した例の場所だ。
「チャフェ・アメリカーノを一つください」
カウンターにて注文と商品受け取りを済ませ、広い店内をきょろきょろと見渡した。新作ドリンクを携帯のカメラアプリで写真に収める女子大生二人組、新聞を目を細ませながら読んでいる60代後半くらいの男性、PC端末をカタカタ操作しているサラリーマン。その中に、見覚えのある姿が目に留まった。紫のリボンが結ばれた、麦わら帽子。
「あ、あの…。昨日は申し訳ありませんでした。私の不注意で、書類を汚してしまって」
私は、女性の席に近づくなり、改めて謝罪の言葉を口にした。女性が振り向いたと同時に紫のリボンがふわりと揺れた。
「あぁ…昨日の人ね」
虚ろな目でそう言うや否や、即座に女性は白紙の束に筆を走らせる。
「あと、1週間…。たったの…7日しかないのか…。いっしゅうかん、いっしゅうかん…。」
ぶつぶつと呪詛のように独り言を呟きながら、震える手で文字を書き連ねていった。「1週間」。コンテストか何かの締め切りだろうか。どちらにせよ、とてつもなく焦っていることは声色と表情から伝わってきたし、あのチャフェ・アメリカーノ水浸し事件によって作り出された状況であるのは言われなくても分かった。
「あの、『1週間』っていうのは何かの締め切りなのでしょうか?もしかして、昨日私が汚してしまった書類と重大な関係があるんですか?」
「ある。ありすぎるくらいね。でも、きっとあなたに話したところでどうにもならないから」
こちらに一瞥を投げた後、即座に作業に戻る彼女。かなり憔悴しきっているけれど、無理やりに筆を動かす仕草を見て、凄く胸が苦しくなった。いてもたってもいられなくなり、堰を切ったように言葉が口からついて出た。
「…あの、『話したところでどうにもならない』って言ってましたけど、私はそうは思わないです。あなたはとても今大変な状況にいる。その原因を作ってしまったのは私だし、協力できないとなると本当に心苦しいです。もしかしたらあなたの言うように、私じゃ力不足かもしれません。だけど、話してくれなかったら、何かが変わることもない。抱えているトラブルを話してくれませんか」
ピクッと反応した後、筆先が止まった。暫く考え込むような仕草をした後、女性は静かな声でこう言った。
「…とりあえず、この場所を出ましょう」
そう言うや否や、大きな鞄の中に紙束を入れて風のように店の外に出てしまった。慌てて追いかけた私の鼓動はドクドクと脈打っていた。
◆◆◆
パタパタとのローファーの靴底音が響き渡る。一体、いつまで歩き続けるのだろう。スクールバッグがの持ち手が肩に食い込んで、熱をもっている。考えないようにしていた通信簿と進路希望調査書。嗚呼、また頭の中にチラつきだした。不安と期待がない交ぜになった脳内はだんだんとマイナス思考が侵食する。あの日の記憶もパレット上の乾いた絵の具みたいに、心の片隅からこびりついていて離れようとしない。
◆◆◆
「イラストレーター育成専門学校?」
チラシを受け取った両親の表情は曇っていて、不機嫌だということが誰の目にも明らかだった。
「うん…美術部の顧問がくれたの。ねぇ、費用のことは私も何とかするつもりでいるのよ。アルバイトを掛け持……」
でも、その後の言葉を継ぐことは許されなかった。母は氷柱の先端のような一瞥をくれた後、低い声で遮りこう言った。
「実果、まさかここに通って絵を習いたい、なんて言うんじゃないわよね。分かってる?うちは、美大や専門学校にはお金を出すつもりはないってこと。大学に行って、卒業後は就職してお金を稼ぐの。絵の生業で生きていける人なんてほんの一握りなんだから。何にでもなれるなんて甘ったれた考えは捨てて、お願いだからまっとうな道を歩んでちょうだい。良い?」
クシャッ。憧れの世界が詰まったチラシはいとも簡単に、ごみ屑と化して捨てられた。私に愛情を注いでくれた人の、同じ手によって。
それから時を経たずして、私は美術部を辞めた。まともな画材もなしに描いてきたデッサンスケッチも全て処分した。宝物に積もった埃をどれだけ払っても、元の姿には戻らない。見ると辛くなるだけ、現実を突きつけられるだけだから。
◆◆◆
「そういえば、お名前は何というのですか」
思い切って尋ねてみた。ずっと名前を知りたかったけど、彼女の纏う静謐な空気感は質問することすら許さない感じがして、躊躇っていたのだ。
「カミーユ」
カミーユの声色は少し不機嫌で、それでいて不安気だった。
「私たちはどこに向かっているんですか?」
私の問いかけには答えず、カミーユは思い出したようにこんなことを訊いてきた。
「こっちの世界は……いえ、ここら辺の地域は、番地に5桁の数字とアルファベットが割り振られている、っていうのは確かかしら?」
「はい。ちょっと複雑だから、覚えられる人は一握りですけど」
今…『こっちの世界は』って言った?どういうこと?外国の人なのかな。
「じゃあ、路地裏3A7V4番地に行ったことは?」
「いいえ。そんな地区名、あったかな…」
その瞬間、カミーユの顔にいたずらっぽい笑みが浮かんだ。口角が上がり、子どもがお菓子をくすねたような表情だった。なんだか、悪だくみをしているようにも見えて、少し怖かった。
◆◆◆
それから、どれだけ時間が経っただろう。だんだんと気温も下がり、肌寒くなってきた。交わす言葉も減っていき、静寂と冷気だけが私たち二人を包んでいた。
「着いたよ」
数歩先を歩くカミーユの足取りが止まった。入り組んだ迷路のような場所をずっと歩いていたせいで、自分がどこにいるのか分からない。視界に入ってきたのは、路地裏の薄暗い景色。まばらにゴミも落ちている。すぐ側を黒猫がもの凄いスピードで通り過ぎていった。
「ここが、路地裏3A7V4番地?」
「そう。目当ての場所に到着できた。準備は良い?」
準備?
カミーユは大きなマンホールの側に近づき、3度履いていたヒールでコツ、コツ、コツと打ち鳴らした。すると、マンホール蓋はカタカタと揺れ始めたかと思うと、透明になって消えてしまった。
「?!!」
それと入れ替わるように、穴の底から長い、長い梯子が天高く伸びていった。梯子の周囲は、透明な光線で包まれていて霧がかかったような感じだ。
「え…なにが……どうなって…」
「ここはね、天界と人間界を繋ぐ中継地点。梯子を登り切った先が天界。そこでは、人間たちの夢幻の紙芝居を心待ちにしている子たちがいるの。私の役目は人間界を調査し、見聞きしたことを物語として文章を書き留めること。そして、その文を絵筆使いに託して紙芝居をこしらえてもらうの」
カミーユはそう言うや否や、梯子に手足をかけて登り始めてしまった…らしい。光線で包まれた梯子の形は目に見えるけれど、登っている人の姿は完全に消えてしまうようだ。
「あなたも一緒に来て!!絵筆使いに事のあらましを全て聞かせないといけないから」
焦燥感溢れるカミーユの声が頭上から聞こえてきた。恐る恐る、言われるがままに梯子に手をかけ、一段一段登り始めた。落ちないようにしっかりと握りしめて、目を細めてはるか上空を見上げた。本当に、「天界」なんて場所があるのだろうか…。天界へと続く梯子の道は、まるで見通しの立たない私の将来みたいに、ひどく不安定で長かった。
ー3634字ー
ー第2話へ続くー
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