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【物語】モノクロームの誓い #3

 絵筆を初めて手にしたのは、たぶん、4歳か5歳位のときだったと思う。初めて描いた絵は何だったか、流石に覚えていない。まっさらなキャンバスと絵筆、もしくは鉛筆さえ渡されれば何時間でも、睡眠や食事の時間も構わず描き続けることができた。

 例えば、真っ赤な熟れたリンゴがテーブルの上にあったとする。大抵の人なら赤一色で書く人がほとんどだと思う。でも、目を凝らしてよくよく観察すると小っちゃな黒い点々だったり、ヘタの部分へ近づくにつれて黄色や白、オレンジ、赤がちょうど良い具合に織り交ざることが分かる。そういった、微妙な色のニュアンスをパレット上で作り出すときは、まるで魔法使いになったような気分だった。
 色付けするときも、慎重に。そーっと、神経を筆先に集中させて真っ白なキャンバスに乗せる。その瞬間が好きだった。まるで、命の息吹を吹き込むような感覚だったから。

◆◆◆

 「実果ちゃんには才能があるよ!あなたの絵を眺めていると、夏の暑い日に風鈴の音を聴いたときのような、爽やか気分になれるわ」
廊下に展示された絵を見てくれた、中学の美術の先生がかけてくれた言葉。今でも私の心の中に残っている。狭い社会でしか生きてこなかった当時の私は、先生のその言葉を単純すぎる程に信じ切っていた。だけど、鳥籠の外から羽ばたくと、煌びやかな景色だけが広がっている訳じゃないってことを思い知らされた。嫌という程。

◆◆◆

 『絵の生業で生きていける人なんてほんの一握りなんだから』。
母がしょっちゅう口にしていた言葉。不平不満を言うときにだけ寄る、眉間の皺。また、脳内でリピート再生ボタンが押されてしまった。ああ、こういうのを「フラッシュバック」って言うのか。
 先月の第1次進路希望調査用紙に「S美術専門学校」と書くことができなかった私は、やっとの思いでチラシを母に見せた。本命のS校がバレるのが何となく怖かったから、同区域内にある複数の専門学校の紹介資料も束にして。
『実果がそこまで言うなら、検討する』。
その一言が母の口から吐き出されることを切に願っていた。だから、必死になって絵に対する情熱や本気で取り組みたい、という誠意を伝えた。バクバクと早鐘を打つような心臓の鼓動も何とか無視しながら。だけど、真剣な気持ちが母に伝わることは絶対になかった。今まで、ずっと。

◆◆◆

 あれから、私の生活は一変してしまった。今まで描いたデッサンスケッチ、絵筆、絵の具、パレット...私と絵とを繋ぎ止める全ての画材はその日のうちに処分した。美術部も辞めた。かろうじて、選択してしまった美術の授業では絵を描いているけど、先生には「私の絵を展示しないでください」と半ば強引に頼み込んでいる。もう、嫌なのだ。宝物のような輝きを纏った日々に墨を塗るのは。

◆◆◆
 
 「私は...もう長いこと絵を描いていないの。カミーユの期待に応えることはできないと思う」
 鉛を飲み込んだような気分の悪さをグッと堪えて何とか伝えた言葉は、ひどく無機質だった。
 カミーユは、少し狼狽するよう仕草を見せたけど、こう言葉を続けた。細心の注意を払うように、慎重に言葉を選びながら。
「も、もしかして、物語を基に絵を描いたことがないかしら?その点が不安なら、今回の宵の遊戯場(ゆうぎば)は特例で実果の好きな絵を描いてほしい。私は文紡使い。絵やイラストさえあれば、そこから物語を紡ぐことだってできるわ。枚数は、そうね...。最低7~8枚程度あれば、何とか紙芝居として成立…」
「悪いけど」
二の句が継げられるのは、もう、聞きたくない。希望や夢を見させる言葉は、所詮、ただの妄想に過ぎない。やる気を出させようと、そうやってこちらを弄ぶ言葉選びは、御託に過ぎない。
「私は、絵を描くことはできない」
さよなら。小さく呟いたと同時に、マンホールの梯子口へと歩を進めた。もう、ポプラの惑星の夢物語や空想事に浸っている余裕なんて、これっぽちも私には残されていない。
「待って…!!私、このままじゃ終われないわ!何人もの子どもたちが宵の遊戯場を心待ちにしているのよ。あの子たちを悪夢から少しでも解放してあげたいだけなの!!だから、力を貸して!!!」
 並べ立てられた言葉をシャットアウトするため、乱暴にスクールバッグからワイヤレスヘッドフォンを取り出した。いつも聴いている、ショパンの「革命のエチュード」を大音量で再生した。螺旋階段を全速力で駆け上がるような旋律に合わせて、逃げるようにその場を後にした。
 足早に去る直前の刹那。勢いよく3回、カミーユのヒール靴が地面をタップした音が聞こえたような気がした。

 この惑星に辿り着いたときは、虹色のグラデーションだった空の景色が少し変わっている。ヴァイオレットやコバルトブルー、シアン、あとはパンジーの色味も垣間見える。銀色をした下弦の極小な三日月がいくつも折り重なり、弧を描いてうごめいている。もうとっくに忘れていた色の名称が、スラスラと脳内に浮かんできたことが、ショックだった。何年も開かずの間にしまい込んでいる絵の具の数々を思い起こさせる空の神秘さが恨めしかった。
 曲の再生リストは次々に展開していくのに、マンホールの入り口に辿りつく気配が皆無だ。闇雲に歩き出したのがマズかった。初めて来た場所で、しかも一度しか潜り抜けなかったマンホールの位置を正確に把握できるほど、私の頭は冴えてない。…仕方ない。どこか、人が集まりやすい場所にでも向かって、元の世界への出口を教えてもらわないと。

 あたりを見渡すと、面白い程に細々とした建造物が立ち並んでいる。カフェ、天文台、図書館、博物館、美術館、公園、学校、各種のショップ。他にも数え切れない程のオブジェや施設で溢れ返っている。
 迷うことなく、「Cafe・Rêverie(カフェ・レヴェリー)」と書かれた看板の下がったドアを押し開けた。

◆◆◆

「ごめんください」
店内はガランとしていて、お客は一人しかいなかった。店員らしき人がカウンターに立っていたけど、こちらを一瞥するなり食器洗いの仕事を継続するだけで挨拶も返してくれなかった。エプロンを付けたその人の背中には、蝶のような羽が4つ生えているから、恐らく妖精なのだろう。金髪をお団子ヘアーにまとめあげて、手先にはオシャレなネイルが施されていた。
 つかつかとカウンターテーブルに近寄り、問いただした。席の一番端には獏のような形をした住民が何やら書き物をしていたから、あまり大声にならないように細心の注意は払ったけど。
「梯子に続くマンホール出口はどこにあるかしら?私、別の世界から迷い込んでしまったの。早く帰らないといけないから、正確な位置を教えてほしいわ。なんなら、地図を渡してくれるだけで構わないわ」
普段使わない顔の筋肉を使って、思い切り作り笑いを浮かべた。頬が引きつるのが分かる。でも、キープしないと。
 妖精店員は、目を2・3度瞬かせた後、さも申し訳なさそうに言葉を継いだ。
「あら、あなた、ポプラの住民じゃないの?まあ、それは大変。さっきちょうどマンホールの出口は封印されたところよ!滅多に封印されることはないから、私もかなり驚いてるわ」
 え…。「封印」ってどういうこと??
 私の表情の変わりようは事の重大さを見事に彼女に伝えてくれたらしい。
「普段はね、自由に人間界へと通じているのよ。でもね、文紡使いと絵筆使いは権威ある役職だから、いつでも梯子へと続くマンホールを閉ざすことができるのよ。今は空が青系統の色だから、たぶんカミーユの仕業ね。宵の遊戯場が近づいているから、てっきり、また人間界へ降り立つのかと思っていたけど、どうやら勘違いのようね」
「カミーユがマンホールを閉じた?」
そんな...!こんな悪夢のような場所、もう懲り懲りなのに!!
「い、いつマンホールは開かれるんですか?!」
「うーん、それはカミーユに訊くしかないわね。でももしかしたら、宵の遊戯場まで日数もないから暫く開かないかも...」
ウソでしょ…。家に帰れないの?じゃあ、私は何が何でも、紙芝居の絵を描かなければいけなくなってしまったの?
 恐ろしい考えが浮かんでは消えていく。再び絵筆を持つ自分の手や真っ白なキャンバスをカラフルな絵で埋め尽くされた紙面を映す瞳。拷問にも等しい時間をこんな訳の分からない異世界で耐え抜かなければならないなんて。
 おもむろにテーブルについた両手がカタカタと震えている。思わず目を閉じて、最悪な考えを振り払う。嗚呼、私は一体どうすれば良い...
「できた!!」
 叫んだと同時に、ガタッと大きな音を立てて、端に座っていた獏がトコトコとこちらへ近づいてきた。
「見て!!」
制服のスカートをチョンチョン、と指で突いて唐突に何枚ものスケッチ用紙を私に押し付けてきた。子ども獏の手は、クレヨンか絵の具だろうか、赤や黒、灰色に染まり汚れていた。
「へ?」
「こら、エニュータ、お客さんにちょっかいかけちゃダメでしょ」
妖精店員は慌てて獏の子どもをたしなめたけど、続けざまにスケッチ用紙を渡す手は止まらない。
「え....ちょっと....」
エニュータと呼ばれた子獏は私の半分ほどの背丈しかなかったから、かがんで、素早く用紙を受け取った。本当は、こんな子どもに構ってる場合じゃないのに。渦巻く不安と怒りを爆発させ、すぐにでも用紙を裂いてやりたかった。でも、描かれた絵を双眼が捉えたと同時にそんな気持ちもぺしゃんこになった。
 恐ろしいモンスターが巨大な鍋で何かの骨を煮込む姿、辺り一面が火事で焼け野原になった場面、鬼の仮面を被った大男が鎌を振り回す場面...捲れども捲れども、凄惨で暗澹たる絵面が顔を出す。
「これは一体...」
「エニュータ、それはお姉ちゃんに見せるものじゃないでしょ。カミーユに渡さなきゃ」
「…うん、分かった」
何の抑揚もない声で答えた後、エニュータは奪い取るように私の手から絵を回収すると、先程座っていたカウンター席に戻っていった。そして、すぐさま白紙のスケッチに新たな地獄絵図を描き始めた。
「エニュータは、悪夢調査団のメンバーなんです。メンバーと言っても、団員はエニュータ1人だけど」
「悪夢調査団?」

 その直後、妖精の店員が聞かせてくれた、ポプラの惑星の子どもたちの抱える問題に、私はとてつもない程の戦慄を覚えることになる。

ー4212字ー
ー第4話へ続くー



 


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