わたしのスクラップノート。瀬戸内晴美


本を読んで気になった文章があると、全てそれを移し書きして残しておく癖がある。それをスクラップノートと呼んでいる。短い文章ならノートに書き、あまりにも長いとこのnoteへ下書きして置いておく。
この写書きと言うのが、思いの外清々しい作業なのだ。自分の脳みそにない文章が頭の中に入ってくるので、とてもリフレッシュされる。違う人間になったみたい。
ここではいくつか公開していきたい。
本日は瀬戸内寂聴さんが出家される前の文章。
では、どうぞ〜。


小説家というのは、たとい出家しなくても自分の心や行いを、他人を見るように見るもうひとつの目を心に持っていなければ成りたたない。
そのおかげで、私は出家する前にも、自分の浅ましさや、愛の妄執に振りまわされている煩悩のすべてを、他人事のように見つめ、それを作品にさえしてきた。
どんな苦しさも悩みも、一度それを作品化してしまうと、何だか狐が落ちたように、きょとんとしてしまい、悩みの外へ自分が連れだされた救いがあったものである。
その度、小説家は得だと思ったことも事実である。

五十になって、はじめて思いもかけない煮湯を飲まされ、死ぬほどの妄執に苦しんでいる人を見ると、気の毒と思うけれど、私はそういう目に会わずにその人が六十を迎えるよりかはよかったのではないかという考えをもつ。
なぜなら、そういう目に遭わないでいると、その人は自分の考え、人への接し方、感受性などに全く自信を持ち続けていて、愛のつまずきをする若い人や、老いた人への同情も思いやりもおよそない人物のまま生涯を終わってしまっただろうから。
苦しみは舐めないほうが幸せだという考え方もあるが、私は人と生まれて、愛の悩みを何ひとつ味わうことなく死んでいく人など、かえって可哀想な気がしてならない。
人間の心の頼りなさを知っただけでもいい。
自分の自信に揺らぎを覚えただけでもいい。
愛の苦しみは、自分以外、他の誰の助力も役に立たないということを思い知らされただけでもいい。
更に、どんな下らない夫でも、そういう男に自分はどうしても未練を覚えるのだという業の深さを悟っただけでもいい。
あるいは、そういう男につくづく愛想を尽かし、きっぱり別れて、自分を建て直す勇気を得たならもっといい。

『嵯峨野より』瀬戸内晴美


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