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乱歩『人でなしの恋』に唸る。

詩を書くからだろうか、解釈がひとつでない作品により惹かれるようだ。

読後興味がわいて執筆者のプロフィールをみると、小説を書くまえに詩からスタートした作家に多くあたりなるほど!と思ったことも一度や二度ではなかった気がする。

江戸川乱歩は詩からスタートではないが個人的には何か詩人の匂いがする。

通俗的で大衆的と評され本人も自己の才能のなさに嫌気が差して書かなかった期間も多いと知った。2022年になっても根強く読まれ忘れ去られていない現代に乱歩をタイムリープさせてあげたい。少しは自信回復になるといいけれど。

「人でなしの恋」も検索すると小規模でありながら設定を現代風に置き換えて今年映画公開されているようだ。

当時は編集からあまり評価を受けなかった好きな自作が何度も映画化されているのだ。乱歩の書くテーマが現代でも色あせず、いやむしろ現代的である証拠なのだろう。編集の見る目がなかったのだ。私はそう思う。

(ここから完全ネタバレなのでご注意ください)

「人でなしの恋」でよく書かれていることだがこの「人でなし」は誰を指しているのか?だ。

19歳で見合い結婚した京子の一人称で語られる物語だが

京子視点でみれば 人形に恋した夫が人でなし

読み手からみれば 人形をバラバラにし夫を死に追いやった京子がひとでなし

最初はこのダブル・ミーニングだと単純に思っていた。
感想でもこれを書いている方がほとんどだ。

小説の最終連を読んで私は唸ってしまった。

 見れば、私に叩きひしがれて、半ば残った人形の唇から、さも人形自身が吐いたかの様に、血潮の飛沫が一しずく、その首を抱いた夫の腕の上へタラリと垂れて、そして人形は、断末魔の不気味な笑いを笑っているのでございました。

いかがでしょう?

人形が、さも無理心中をして人間の妻である京子に勝利宣言をしている笑みにも読み取れないでしょうか。

乱歩は確実に意識してこの文言を最後にしている。

人形に命が宿ってるかのような
これもつまり、人でなし の恋

脅威のトリプル・ミーニング!

京人形に敗北する新妻を京子とする皮肉さも好きだ。

詩人の萩原朔太郎と懇意だったというのも頷ける気がする。長編プロットが合わずに苦労していたとも言うし発想の闊達さや解釈の幅の広さを書ける資質は詩にも向いていたのでは?

乱歩の詩も読んでみたかったと強く感じながら他の乱歩作品も読んでいきたいと思っている。

(ちなみに夢野久作作品も解釈の幅が広くて最近好きです)



アンビリーバーボーな薄給で働いているのでw他県の詩の勉強会に行く旅費の積立にさせていただきます。