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日々の記録です。平安貴族もその日の出来事を記していたといいます。
浮かぶコトバの行き着く先は。
だいたい100個ぐらいあって。
京都に関することを書きます。不定期更新です。
明けない夜に秋を感じる。 大学の夏休みのうちはまだまだ暑さが残り秋を感じる瞬間は少なかった。そろそろ後期が始まるという9月も末になれば、少々朝晩の涼しさを感じて長袖のシャツを羽織るようになっていただろうか。 今年もまだそんな時期にはなっていないようだが、この嵐が過ぎ去る頃には秋がやってくるのだろうか。あたりが赤く染まり始め夕日が格段と美しくなる頃。頬を撫でる風が冷たくなり、厚手のシャツが恋しくなる。 秋が好きだ。これまでもこれからも。今年もそろそろ本番といったところだろ
でもやっぱりそれも私自身がどう思うかなのだろうか。何事も捉え様。たったそれだけの話。常に前を向いてポジティブに生きたいものである。 明けない夜に秋を感じる。 また明日。
人生は面白い。 うまくいくことはきっちりうまくいくし、そうでないことはどうやってもうまくいかない。報われることはどうも決まっているようで、報われないこともまたきっちり決まっているようだ。人生を変えることができるかと言えばよくわからないというのが最近の本音だ。変えたと思ったことでも、実はそれもまた最初から決まっていたかのような。そう思えてしまう。 でもやっぱりそれも私自身がどう思うかなのだろうか。 また明日。
生きてさえいりゃいいことあるさ。 なんてまた気の抜けたことを言ってみる。それぐらいがちょうどいいのはなんとなくわかっているが、それを実践できるかどうかといえばまた別の話だろう。 この日記は日々起こった物事を書き記すために始めたはずだったが、日々の思うことを書き連ねる日記に成り下がってしまった。その日その時考えたことを記すことには意味はあるし、後々になって読み返すとまた面白いものなのでそれはそれでいいのだけれど、どうも平安貴族の日記のようにはいかないし、後年文献として扱われ
だし、その気の抜けた考え方が救ってくれることもある。 久方ぶりに夜空を見上げた。少し欠けてはいるが明るく光り輝く月に少しばかり笑みがこぼれる。 久方ぶりになんでこんなに仕事をしているのだろうと愚痴がこぼれた。珍しく仕事がしんどいと思ってしまう。 久方ぶりに帰りの電車がこんなに眠い。頑張ってると思うよ、自分、誰にも負けないくらいに。 久方ぶりにいろんなことがどうでもいいと思えた。自分のことくらい信じてやろうと、自分くらい味方でいてやろうと、そんな気の抜けた、単純なことを
そう、前に進む方がマシなのだ。 前に進む方法はいくらでもある。何をやるにしてもそれが何かには繋がるわけだし、そういう点はいくつでも打っておく方がいい。経験の数だけ人間は深みを帯びる。失敗の数だけ成長する。成功の数だけ背筋が伸びる。そうやって纏う人間性は指数関数的に深みを帯びていくのだし、色味を増していくのである。できることはやっておいた方がいい。完璧じゃなくていい。やらないよりやっといた方がマシ。ようやくそんな簡単なことを思い出せた。 だし、その気の抜けた考え方が救ってく
惰性で続けるのは果たしてどうなのか。 惰性で続けている趣味の1つがライブに行くことだろうか。大箱の一体感や壮大なイベント感も好きではあるが、やはり小さな箱で音を振動として身体全体で感じるあの時間が好きだったりする。身体に直接訴えかけてくるあの時間は私にとって非常に大事なもので、雑念が吹き飛ぶというよりは、アイデアが降りてきたり頭の中が整理されたりと比較的クリエイティブな方向に進む。雑念が吹き飛ぶのは野外フェスでビール飲んで酔っ払って1人で踊り狂っているときである。自分でもや
さて、当人の力量とは便利な言葉だ。 惰性で続けるのは果たしてどうなのか。 また明日。
その真意はどこにあるのか。真意というのは隠れがちである。それが漏れ出すのは風流ではないとも思えるし、一般的にも良いこととは思われていないように感じる。漏れ出すくらいならストレートに伝えなさいと。 あえて漏れ出させるというのは駆け引きとか言うものであろうし、本音と建前というようなワードに収まることでもあるかもしれない。どれくらい真意を透けさせるか、それは当人の力量であろうし、それを感じ取れるかというのもまた当人の力量次第である。 さて、当人の力量とは便利な言葉だ。 また明日
高貴な思想は役には立たない。 そんなことを語った自分のことは覚えていない。珍しく酔っ払っていたし、珍しく記憶が曖昧である。 その真意はどこにあるのか。 また明日。
とはいえ、そういうもんなのだ。 日々の生活を楽しむしかないなというのは実感するところである。真面目な話、それ以上も以下もない。 高貴な思想は役には立たない。 また明日。
そう思ったのだから、それ以上も以下もない。 自分の感情には正直に生きるべきだというのが最近の学びである。他人のことを気にしたり、世の中のことを気にしたり、もちろんそうしなければならないことも多いのだけれど、やはり一番は自分の感情であろう。 近頃は自らの刺々しい感情に直面することが多い。そういう根底にある感情のせいもあって、他者との関わりは面倒だと思うし、思い通りにならないことに対する怒りのようなものも多い。そういう感情に正直になれというのは少し変な話に思えるけれど、それが
執着なんぞせず、挑発的に生きる。 挑発的に生きてきたと思う。でも欲しいものへの執着は人以上にしてきたのかもしれない。執着しているうちはそのものは手に入らないというのはここ最近の学びであるが、執着を取っ払うのに必要なものの1つが挑発的な態度であることもまた最近の学びである。 正直、これの真意を理解するのはもっともっと先の話だろうと思う。今はただ、そう思ったというだけである。 そう思ったのだから、それ以上も以下もない。 また明日。
そういう弱さを受け入れることもまた大人になるというだろうか。 最近は大人になることに固執してしまっている気がする。本当に手に入れたいと思うのならば、その気持ちは捨てねばならぬ。執着がなくなったとき、きっと何もかもうまくいき始めるのだから。 執着なんぞせず、挑発的に生きる。 また明日。
大人にならなきゃと日々後悔する。言動に反省もすることも多いし、スキルや習慣的にももう少し大人にならねばと思うのだ。どうもいつまでも子どものままのように思えてならない。 まだまだやることばかりだ。人生経験は人よりもしてきたつもりだったが、案外そうではないのかもしれない。 そういう弱さを受け入れることもまた大人になるというだろうか。 また明日。
BGMのせいか、何かとハッとするのだ。 大人にならなきゃと日々後悔する。 また明日。